明るすぎる陽差し。
窓硝子から床まで、光と細かな塵粒子の直線が引かれる。
別に悪魔が昼光に曝されたからといって身体が溶けたり、
疲れが増すわけでも力が衰えるわけでもない。
だが闇の眷属であるセバスチャンにとっては、嗜好でいえばやはり夜の方が良い。
昼は全ての醜さを曝け出し、夜は静かに覆い隠す。
光はあらゆる生き物に息吹を与え、夜はそれを優しく摘み取るのだ。
「卑しい害獣如き……」
何度その言葉が、自分に吐き掛けられただろうか。
無慈悲で傲慢な神と、卑賤で醜悪な悪魔。
そしてその間に立つ、美しくて若く、無知で愚かな人間の子供。
セバスチャンは新しい白手袋をつけてから、棚に残された日誌を探し出す。
前の執事長はとても几帳面な性格だったらしく、
字も丁寧で事細かに日々の業務が書き込まれていた。
(使用人の監督――まだこの家には居ないから、これは要らない。
毎食の給仕、食器・酒蔵の管理、主人の身の周りの世話――たいした事ではない。
もっともあの主人の性格だとそんな簡単な業務すら、日々苛まれそうではあるが)
靴紐結び――。
セバスチャンはぱたんと音を立てて、日誌を閉じる。
(長年生きてきたが、たかが人間の少年の靴の紐を毎日結ばされる日が来ようとは)
ちりんと、壁につけられた呼び鈴が鳴る。
(つい先ほど出て行けと言ったばかりで、今度は呼びつける――実に身勝手な主人だ。
それも契約さえあれば、何でも忍び堪えよう。
だが何故それも無しに、私は主人の言いつけ通り執務室へと足を運んでるのだろうか)
「お呼びですか?」
「ああ、あまりに退屈だ」
何と我儘な、と心の中で毒づきながら顔には出さずに、
セバスチャンは精一杯愛想の良い笑顔を取り繕った。
「ではその空っぽな頭に何か入れるか、ひ弱な身体を鍛えるか、どちらかに為されれば宜しいのでは?」
「執事の口の聞き方も学んでおけ」
「それは追々と。もうご主人様が爵位を継がれる事になるのですから、
学問、楽器、狩猟など、それ相応の教養が必要でしょう。
今日は幸い晴天に恵まれております。狩猟などは如何ですか?」
「僕は――まだ馬にも乗れない」
息絶えそうな虫の音ほど小さな声で、シエルは俯いて答えた。
両親は兄と弟に均等な愛を注いだ。
しかし跡継ぎは兄と決まっていて、シエルが身体が弱かった事もあり、
兄には既に乗馬や狩りなどを学ばせていたが、
シエルはその間屋敷に残って、静かに本を読んでいたのだった。
「私が教えて差し上げます」
厩舎には、世話する者も無くなり放たれた筈の馬が繋がれていた。
背に鞍を乗せると、シエルの腰を抱くと楽々と持ち上げ、
鐙(あぶみ)に足をかけさせる。
馬の背はシエルが思っていたよりも、ずっとずっと高かった。
ひらりと身を翻して、セバスチャンも後ろに跨る。
「お前も同じ馬に?」
「初心者には危険ですので」
セバスチャンはシエルに手綱を持たせ、手を重ねてひっぱり、
馬の腹に足を当てた。
蹄の音を立てて馬が進み始める。並足ですら、シエルには相当に速く感じられた。
「そろそろ走らせますね、しっかり馬の鬣と手綱を握っていて下さい。ご主人様」
そう告げるとセバスチャンはシエルの小さな躯を後ろから包み、前傾姿勢を取って鞭の音を鳴らす。
はじめは風が口と鼻に急激に流れ込んできて、息苦しかったが、
光に埋もれる近景が、怖ろしい速さで流れ過ぎ去っていく爽快感に、
シエルは少年らしく眼を輝かせた。
咽かえるような若葉の香りに混じって、セバスチャンの匂いがする。
それは薔薇の芳香のような、落ち着いた、とても良い匂いだった。
シエルが咳込み始めて、執事は馬を宥め速度を落とす。
「大丈夫ですか?」
「ちょっと……息を大きく吸いすぎただけだ」
セバスチャンはシエルの顎に手をかけて横から覗き込む。
強い日差しを浴びて彼の瞳は今は、淹れ方の浅い紅茶のような色をしている、
今朝の彼自身が出したモーニングティーのように――とシエルはぼんやりと考えていた。
するとセバスチャンの冷たい唇が触れてきて、シエルはその頬を叩こうと手を上げる。
しかし手首を掴まれ、さらに濃厚な口吻が落とされた。
甘く油断のならない、官能的で欺瞞的なキス。
歯列をなぞってくる舌にも温度はない。
頬の内側の肉をつつく愛撫も、何か魂胆が透けて見える。
「だから、キスには……」
「必要なのは一緒に出かけること?でしたら、もう今まさにしておりますよ。
それより必要なのは愛の告白――でしたか?
言葉ほど信用ならぬものはありません。
愛の歓び、肉体の悦楽は決して裏切ることはありませんが」
***
昼のない世界。
二匹の悪魔が棲む世界は優美な虚飾に満ち、
決して光によってその仕掛けが暴かれることもない。
セバスチャンを試すように差し出された小さいながら肉感的な唇。
(脆い硝子細工の人形だ――この方は)
漆黒の悪魔は目を閉じ、その唇に唇を重ねる。
舌をその間に割り入れようと尖らせてから、
セバスチャンは思いなおして、それを口中深くに仕舞い込む。
ただ触れているだけの。
薄っすらと目を開けると、
そこにはセバスチャンが思っていた通りの光景が広がる。
目の前には、濃紺の薔薇の花を差し出してせせら笑う少年。
セバスチャンの唇に一片の花弁が残された。
「お嫌なら素直に、そう仰れば良いのに」
「お前が期待して目を閉じる無様な顔を見れて愉快だ。何が嫌なものか」
セバスチャンの顔から執事の仮面が落ちて、
虹彩が紅く染まり、瞳孔は細く絞られる。
少年の形をした悪魔の頬を強く掴むと、今度は無理に唇を奪う。
獣の咆哮が一面に轟いて、少年は黒い犬とも狼ともつかぬ影となり牙を剥いた。
燕尾服をつけていた悪魔も既にさらに大きな黒い獣と化して、より鋭い牙を立てる。
悦楽の嬌声か、苦痛の呻きか。
互いに相手を貪り喰らい尽くす勢いで、求め合い、繋がる。
影の形を取ることに飽いたのか、シエルが少年の姿にもどると、
応じてセバスチャンも元の執事の身体で、激しく責め立てる。
一糸も纏わぬ純潔な白い素肌は、組み敷かれ炎に炙られたように染まった。
怒りにまかせ生きたまま噛み砕き飲干さんばかりに、長く太い杭を打ち込む悪魔と、
その怒る様を嘲笑いながら、這わされ淫欲の波に身体をうねらせて悦び身を奮わせる小さな悪魔。
互いに瞳を朱く爛れさせて、興じていた箱庭も忘れ、一心に交わり続ける。