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「ほんとうに、貴様はなにも分かっていない」

震える声で、低く呻くように寄越された言葉は、予想と異なり呪詛ではなかった。

「言わなければ分からないのか。僕はお前を恨んではいない。兄の魂はお前にすれば正当な渡り賃だ。支払いが行われたからこそ、お前が現れ、僕が生きている」

シエルは激昂を沈めるためか、一度だけ深く溜息をついた。
すぐに、すい、と上げられた眼差しは、怒りの雲を欠片も浮かばせぬ冴えた涼空だ。

「復讐心を対価に兄の命を狩り取った人、延命を対価に兄の魂を腹に収めた魔。僕がどちらを憎むと思う?」
「その問いに答えるような差し出がましい真似は、私には、とても」

胸に手を添え慇懃に腰を屈めると、シエルは双色の瞳でセバスチャンを見上げて、薄い唇を開いた。
しばし逡巡を見せてから、独り言に近い呟きを零す。

「…僕はお前に感謝はしない。互いが納得し対価を支払う、そこに感謝は必要ないからだ。だが、お前の落ち度でしかないとしても、対価を払えないままでいると」

シエルは一度言葉を切る。
心の底にたまった凝りを、そっと掬うような声だった。

「時々、……感謝してしまいそうに、なる」

セバスチャンが黙ったままでいると、シエルは犬を招くように左手を軽く振った。
円卓を回り込んで傍に寄ると、膝を折って傅くよう無言のまま命じられる。

「お前と唇を合わせないことに、兄の魂を理由にした嫌悪があったことは認める。だが意外だったな。他ならぬお前が、初恋に惑うどこぞの令嬢のように、そんなことを気にしていたとは」

くく、幼い顔に悪辣な笑みを描いて、シエルが顔を寄せてくる。
仰ぎ見る様に眺めていると、ス、と頬を撫でられる。間を置かず、手荒にタイを引っ張られた。

「口付けて欲しいか?お前が望むなら―――」

間近で笑む性悪な瞳に心底見惚れつつ、そんな己の趣味の悪さに、セバスチャンは微苦笑だ。

「いいえ、マイ・ロード」
「残念だ。お前が望むなら、絶対に口付けてなどやらないつもりだったのに」

そうして寄越されたのは、悪戯のように真摯な唇だった。



***



「なにをする!」

パン、と渇いた音が部屋に響いたのと、セバスチャンが目を瞠るのは同時だった。
執務室にある深青のソファに並んでかけている、シエルとアンダーテイカーをちらと見遣りつつ、しかし淀みなくティーカップを並べ続ける。
小さな主は真っ赤だ。対してアンダーテイカーも真っ赤である、頬が。

「小生達は熱ゥい契約を交わした仲じゃないか。キスの一つや二つで怒らなくてもいいと思うんだけどねぇ」
「契約外だ!不埒もの!」

子供らしい純真さに苦笑を刷くと、それを見咎めたシエルが素直に頬を膨らませた。
じとり、碧蒼の眼差しで睨みつけてくる。

「下賤の輩共め。こういうことには手順があるんだ!」
「おや、左様でございますか。後学のためにお伺いしても?」

シエルは大人二人を交互にチラと見遣って、しかたがないなと尊大に頷いた。

「まず名と身分を訊く」
「昨晩伺いました」
「自己紹介をする」
「ヒッヒ、もうずいぶん前にしたじゃないか。それで?」
「…手紙を書くとか、一緒に出掛けるとか、食事をするとか」
「おや、じゃあ執事君には未だキスの資格はない様だねぇ。でも小生にはあるよ」

シエルは至極嫌そうな顔をして、言い難そうにボソボソと呟く。

「一番大切なのは愛の告白だ」
「好きだよ」
「好きです」

言い終らぬ内に両側から告白されて、シエルは眦をカッと染めた。勿論怒りからではあるが。

「くだらん!お前たちに付き合ってる暇はない!邪魔だ出て行け。セバスチャン、摘まみ出せ」
「畏まりました」

ひょいとアンダーテイカーの首根っこを掴んで廊下に引き摺っていく。扉からペイッと投げ捨てようとしたところで、主の声が。

「セバスチャン、自分も摘まみ出せ」
「…御意」

クソガキ、そう口中だけで呟きながら廊下に出ると、這い蹲っていたはずのアンダーテイカーが、隙のない身ごなしですらりと立ち、蛍碧の瞳を覗かせてセバスチャンを見ていた。

「昨夜は七人殺したね。ヒッヒ、全員殺しては勿体無いよ。背後関係を吐かせられないからね」
「なるほど。次は気を付けましょう」
「それとね、館門のところで見張り役をしていた男、ひとり見逃していたよ」
「それは失礼致しました。ご覧になっていたのですか」
「いつでも見ているよ。勿論、君じゃなくて君の主をね」

蛍碧の双眸を妖しく撓らせて、アンダーテイカーが得体の知れない笑みを見せる。
ぞくりと背筋に寒気が走り、セバスチャンは剣呑な笑みでそれに応えた。

「その見張りの方は処分して下さったのですか」
「いいや。死神は自分が死因になってはいけないのさ」

行儀良く決まり事を護る男ではないでしょう?言葉にしないまま皮肉を込めて肩を竦めると、アンダーテイカーはとぼけた表情である。

「ねぇ、執事君」

言うや否や、ぐ、と顔を寄せられる。
銀の髪が滝のように流れ落ちて、セバスチャンの視界を奪う。まるで水牢に籠められたようだ。
明るい碧の奥に断罪の金焔を煌めかせ、酷薄な笑みを象った唇で、低い囁きを耳朶近く。

「あの子は小生の契約相手。卑しい害獣如きが、身の程を弁えてほしいねェ。あの子を敵からも、君自身からも、命を捨てる覚悟で護っておくれよ。護れないなら、君はお払い箱だ」

アンダーテイカーはおどけた様子で、チョキン、自身の首を切り離す仕草をして見せた。
刃より余程斬れ味の良い怜悧な眼差しを向けられつつ、セバスチャンハうっそりと仄暗い微笑みだ。

「貴方に言われるまでもないことです。わたしの、ごしゅじんさま、ですから」
「そうかい。宜しく頼むよ。しょうせいの、けいやくしゃ、だからねぇ」

アンダーテイカーはゆっくりと身を離すと、鋭い双眸を長い髪の奥に隠して、じゃあねと気安い調子で踵を返した。
それを一礼しつつ見送って、セバスチャンは深い溜息だ。

「嗚呼、手袋を替えなければ」

掌は冷たい汗でじっとりと濡れていた。



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