「名前……?」
完璧な美の精髄、それを人の形に具現化したのなら、
この目の前の男のようになるのだろう。
男の妖しい美しさに、シエルは息をするのも暫し忘れて、
陶然と見入ってから、我に返り問い返した。
神の名を濫りに口にする事勿れと聖書にあるが、
悪魔もまた自らの真の名は告げないのか、
それとも元々名付けられていない抽象的な存在なのか。
黒く密集した睫毛の間から、貴柘榴石のような暗赤色の瞳が、
じっとシエルを値踏みするように見つめている、
――これはなかなかの――
ヒトの中でも、上の上。
煌く円らな瞳、形良く通った鼻筋、美しい唇の形。
まだ性的に未分化な、少年とも少女とも思える面差し。
しかし、細いながら凛と意思の強さを表す眉だけが、
雇い主が少年だという事を示していた。
――しかし、それらは所詮見てくれ――
容器(うつわ)にしか過ぎぬ事――
「貴方の好きなように呼んでくれて構いません」
象牙のような少年の白い肌には、
所々に打ち据えられたような青痣や無数の擦傷が残っている。
無残に虐げられた傷が、その脆弱な肉体の上に成り立つ少年の美を、
さらに際立たせているようにも見えた。
だが問題はこの子の瞳の色だ。
片方の碧海の如き青い瞳は問題ない。
もう一方のこの翡翠色は、悪魔である自分にとって忌避すべきものと、
本能が告げている。
だがそれ故に自分はかつて無い程、
この人間、この少年に興味が湧く。
身を焦がされ焼かれると知っていても、尚、
誘蛾灯に引き寄せられる羽蟲のように。
「では、タナカと」
「タナカ――ですね。それは前職の執事の方の名前ですか?」
シエルはこくんと頷く。
背後で、象嵌細工の棚を弄っていた葬儀屋が振り返って、
口を挟んだ。
「彼はまだ生きてるから、他の名前の方が都合良いだろうねぇ...」
「タナカが生きて……」
「ああ、だけど重傷だから当分病院にいる事になると思うけれど」
身を乗り出し葬儀屋の話を聞くと、
シエルは安堵した顔で深く息を吐き出して、
執務椅子に沈み込むように腰掛けなおす。
その椅子は明らかに少年には大きすぎて、
背もたれの半分程度のところに後頭部があたっていた。
「では改めて名前を――」
「じゃあ……セバスチャン。今日からお前はセバスチャンだ」
葬儀屋がヒャッヒャッと声を立てて笑った。
燕尾服姿の男は一瞬横目で、葬儀屋を訝しげに眺めたが、
気を取り直し笑顔を繕って、胸に手を添えて言う。
「かしこまりました。では今からはセバスチャンとお呼びください。
その方も、前任の使用人の誰かなのですか?」
「それは、この子がとても可愛がっていたヤツの名前だよ...」
間を割って葬儀屋が尚も不気味に笑い続けながら、
シエルの代わりに答えた。
「それは有難き幸せに存じます。
ところでご主人様。人ならぬ私に何故執事を勤めさせようと?
見たところ、貴方は死神と契約していらっしゃるご様子。
それでは、私に魂をくれられるわけでもない。
そして貴方も死神に頼ればよろしいのでは?」
葬儀屋が長い前髪をかき上げ、
ようやく死神の証たる双眸をセバスチャンに示して言う。
「死神というのは、君らと違ってきちんと寝るモノだからねぇ」
「では私の仕事は、夜番ということですか?」
「まあ早い話が、そういうわけさ...」
葬儀屋は答えながら大きな欠伸をすると、
またひゃひゃと笑い出す。
「さあ、対面も済んだことだし、小生はそろそろお暇させて頂くよ。
気に入りの棺で寝ないと、体調が悪くなるもんでねぇ...
後は二人でじっくり話し合うでも、何とでも」
ふらりと気ままに執務室を出て行く葬儀屋の後ろ姿を見つめながら、
セバスチャンは彼が約束した自分への見返りについて考えていた。
彼が死神なら、自分に魂の斡旋をするはずもない。
一体私が満足できる見返りなど、他にあるものだろうか?――
「一体彼と何処でお知り合いに?」
「父の友人……いや仕事仲間だった」
とその時セバスチャンは、
遠くから一団の人々が近づいてくる気配を察知する。
人の群れは散開して、焼け爛れた低木に身を潜め、
屋敷の中の様子を窺っているらしい。
「どなたかご来訪のご予定が?」
「殺せ。セバスチャン。あいつらは僕の命を狙いに来た。
お前の役目は、僕の命を守りきる事」
シエルは臆した様子もなく、
極めて冷静な態度でセバスチャンに命じた。
「御意」という彼の答えがシエルの耳に届く頃には、
既に彼の姿は目の前から忽然と消え去っている。
暗闇のあちらこちらで骨が砕かれる音が聞こえ、断末魔の悲鳴が上がり、
そしてまた重苦しい静寂に戻っていく。
「お待たせしました。ご主人様。もうご安心下さいませ」
目を上げると、先ほどと同じように、
執務机の前にセバスチャンが立っていた。
「安心なぞできない。油断したら終わりだからな」
「私がついております。ああ、この部屋も直さなければ」
セバスチャンが指を鳴らすと、執務室は在りし日のように、
整然と物が並んだ。
シエルが振り返ると、
破れていた筈の窓もすっかり補修されている。
「何をした?」
「見ればお分かりのように、
この屋敷全体を元のように綺麗にしておきました。
あの状態では侵入者を防ぐのも厄介でしたので」
人為らざる者でなければ、凡そ勤まらない。
この今の自分の立場は、
狼の群れの真ん中に放たれた野兎のようなものなのだ。
しかしこいつがどこまで信用できるのか。
契約も代償として捧げる魂もなく、一体どこまで。