鏃 05
「そなた、ここのものではないな」
水中であるのに、その声は歯切れがよく、なぜか、きちんと聞き取ることができた。
「その顔では、そなた、何が起こったのか、解してなどいないのだろう」
立ち尽くしている僕の前に、悠然と、それは降りてきた。白の尾鰭が水底をかすめる。沈降するそれの、青の背鰭が揺れた。
「そなたもわれも、偶々ここに流れ着いてしまっただけだ。どこにいたとて、もとより水の通い路はつながっている。さほど驚くようなことではない」
こたえであるのであろうことばを与えられたけれど、何が起こっているのかなど、さっぱり解らなかった。驚く余裕すらありはしない。
混乱から抜け出せないでいる僕が、それにとっては愉快なものであったらしい。動くごとに剥がれ落ちるのか、ゆらめきの軌跡に黄金の花弁を追従させながら、それは胸鰭を揺らしてみせる。
「魚、とでも呼べばいい」
目を凝らしていなければまわりにかたちが融けてしまうそれが、僕に呼び名を与える。
「さかな」
与えられた名を、復唱した。混乱の極みにあって、勝手に身体が動いた結果だった。だけど、息を詰まらせることも水を飲みこむこともなく、僕は声をあげることができた。
「これは?」
問いを投げることも、できた。
くるり、と、魚は腹鰭を反転させる。糸のような黒の筋が、魚の纏う青が、緩慢にひるがえりながら、反転を追う。
「かつて、生きていくためにひとが造り、維持していたもの。それらのうちの、目に見え、触れることができるもの。その名残だ」
「かつて?」
「沈んだとも沈められたともいえる。停められたとも埋められたともいえる。眠ったとも溺れたとも、満たされたとも、いえる」
「どうして」
僕の声に、魚は首を傾げたようだった。
「脅かされるのは、奪われるのは、厭なのだろう? さびしいのは、ひもじいのは、厭なのだろう? そうならないようにと足掻き、そこから抜け出したいと希ったからかもしれない。そうではないということを想い描き、そのようになりたいと、もぎ取りたいと、もとめたからかもしれない。誰がそう望んだのかすら、蕩け果てて、水底に沈んだのだろうが」
水底に突き刺さっている木材に、魚は胸鰭を這わせた。
「これらがいつのものであるのかは知らない。だが、これで腐り切れずに残っている。崩れ切れないかわりに、あらたまることもない」
魚の眼が僕をとらえた。洞のような黒に絡め取られる。
「そなたはこれらをしらないのだろう。それとも、忘れることにしたのか。どちらでも同じことか」
こたえられないでいる僕に、魚はため息を吐いたようだった。
- 5 -
[←] * [→]
bookmark
Top