異装と亡霊03


 饗卓ではひとりの男がぼくを待っていた。豪壮と奢侈を従えて、柔和な物腰をスーツで包み、蒼の目をした壮年の男が、料理と草花で華やかに飾られた饗卓の向こう側で、椅子に座っていた。
 老人と同様、この男も初めて見る顔だった。それまでぼくが父と呼んでいたのは、傍目には祖父と映るような老齢の男だった。もっとも、母だけを目にかけ、母から離れようとしないぼくを透きとおった何かとして扱っていた男をそう呼ぶことは、ほとんどなかったのだけれど。
 贅を尽くした饗応の主は、値踏みするような目でぼくを眺めてきた。居心地の悪さを覚えたぼくは、ただその場で俯いた。ぼくの目に溜まっていた涙が、顔が傾いたことでそれまでの堰を失って、頬を伝うことなく床に落ちていった。どうしてなのかはわからなかったけれど、頬を転げ落ちる涙がとまることはなかった。胸の底は平静であるのに、涙は湧き続け、頬を伝っていく。
 暖炉では火が燃えていて充分に暖かかったはずなのだけれど、不意に襲ってきた寒さに、肩に掛けていただけの白の外套を、ぼくは胸元で掻き合わせた。
脚を組んで椅子に座る男は、男の所有するこの家にぼくを迎える準備のあることと、これからぼくは書面においても男の子供になるということを、ぼくに告げた。投げつけられる声の突き放した響きが、ぼくを不安にさせる。だから、確かめずにはいられなかった。

「母さんは?」
「ここにはいない」
「母さんは、どこにいるの?」
「遠くへ隔てざるをえない。海辺の風があれの身体に合えばいいのだが」
「ぼくは、母さんに、会えないの?」
「あれは私と彼女の対話だった。今度はどのように声をあげてくるのかと、私はあれの爆ぜさせる炎を楽しみに日々を過ごしていた。それをおまえが途切れさせてしまった。ゆえに、これは罰だ。あれに会えないことも、この家を檻とすることも。我々の対話が崩れてしまったのは、すべておまえのせいなのだから」

 それまで酷薄ですらあった男の目許が、蕩けるようにやわらかくなる。

「おまえはいけない子なのだよ」

 耳にすべらかな優しい声で、教え諭すように、男は毒を撒く。耳から滲んでくる毒は、その厳格さをもって、ゆるやかにぼくを蝕んでいく。
 男は脚を組み直し、高らかに手を打った。

「日付が変わったことを大目に見れば、まだ陽が昇り切っていないことをもって夜と見なすのであれば、今はまだ祝祭の夜だ。祝祭にふさわしく豪勢なものをと食事を用意させたのだが、見たところ、湯浴みが先のようだな。だが、その前に喉を潤すくらいのことはしてもよいだろう。欲しいものはあるか?」

 男の申し出に、ぼくは卓へと眼を向けた。夜と灯火が交互に明滅する饗卓の、零れんばかりに盛られた葡萄や無花果のなかから、ひとつの果実を選び出す。

「柘榴を」

 ぼくのもとめをうけて、男は果物の皿に手を伸ばし、そこに盛られていた柘榴を無造作に掴んだ。柘榴を掴んだ男の手が離れていくにつれ、脚の高い銀皿に小粒の宝石が結集した果実とともに積まれていた李や桃が、花びらの上に転げ落ちる。卓を回り、ぼくに歩み寄りながら、男は手にした柘榴から透き通った紅の一粒をつまみとった。立ち尽しているぼくの前に立つと、男は紅の粒を捕えていない方の手で僕の髪に触れ、肩上で途切れるまで撫で降ろし、僕の顎を掬った。上向くことを余儀なくされたぼくの唇を、男の親指が撫でた。上下で合わさることを忘れていた歯の間から、男は透明な紅を放りこむ。驚きのあまり目を瞠ったぼくは、咀嚼することなく柘榴の粒を嚥下した。男が満足げに頷く。

「おまえもこれを好むのだな」

 真近にある男の青の目に、慈しみを帯びた寂寞を見つける。男が見つめているのであろう幻影を察したぼくは、柘榴とは母の好きな果実であったことを思い出した。


<異装と亡霊 抜粋>


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