異装と亡霊04
痺れるような痛みが背筋を駆け抜けた。呻く代わりに奥歯を噛み締め、眉根を寄せる。眠っているうちに長椅子から床に転げ落ちたらしい。
気怠さに潰されそうになりながら瞼を抉じ開ける。
卓の脚の間の床に、葡萄酒の瓶が転がっていた。栓の抜かれている口から溢れ出た、グラス一杯分だけを飲まれた葡萄酒が、毛足の長い絨毯に吸われている。貪欲な敷物が吸った紅の染みは、時の経過に熱も色も喰らわれて、黒の沼となっていた。
あれほど燃え盛っていた蝋燭の群れは、融け尽きるか夜風に吹き消されるかして、燭火としてはほとんど残っていなかった。
片腕に自重をかけて起きあがろうとしたけれど、四肢が冷気に強張っているからか、思うようにいかない。持ちあげた半身が床に落ちる。何を見るというわけでもなく、目線の高さがそこであったという理由だけで、焦点の合わない眼を絨毯に這わせる。
そこには絨毯に吸われた葡萄酒の染みがあった。それは先刻と同じだった。そこには革靴の爪先があった。それは先刻と違っていた。卓の脚の間には、染みを踏み締める革靴と、その靴を履いている誰かの脚が現れていた。栓という舌を欠いた瓶の口から葡萄酒の沼に抜け出してきたかのように、忽然と、燭火から零れる黄金の舞い降る黒の沼に、その革靴は浸っていた。
今度は両手を支えにして、ゆっくりと身を起こす。
饗卓の向こうには人のかたちをしたものが佇んでいた。人という輪郭を境とした内側で、赤や黒といった色彩が渦巻いている。
人のかたちをした影が、黒の大外套を纏った青年へと凝っていく。
こちらに横顔を見せながら、青年は眼鏡越しの赤の目で森を切り抜いた方形を――誰かに呼ばれた男が出て行ったまま、家の扉は開いていた――眺めていた。
朦朧としながら卓に手を掛け、身を引き揚げて、長椅子に座る。僕が座ったことで生じた軋みに、黒の短髪を揺らしながら、青年は白皙の面をこちらに向けた。影が凝った黒は、緑にもゆらぐ赤の目で僕をとらえた。青年の口の端が愉しげに吊りあがる。
「お嬢さん、かな?」
問いかけられた僕は、青年に答えることよりも己の疑問を優先した。
<異装と亡霊 抜粋2>
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