夢見鳥と映日紅04


「どういうこと?」

 岩の窪みに身を潜めていた少女が男を見上げる。ゆらめくように立ち上がる少女に、男は濡れた布を握らせた。

「それで口を塞げ。洞穴を抜けるまで、できるだけ息をするな。わかったな」

 少女の唇に吐息を漏らす暇すらあたえず、男は少女の手を操り、その手にある布で口を覆わせた。目を瞠る少女を、指先にとまった蝶を掲げるかのように、男は抱き上げる。甘く涼やかな果実の香が、少女の鼻先をくすぐった。
 身動きするに窮屈ではない程度に穿たれている洞穴は、ゆるやかに下降する、地の底へと続く回廊のようだった。慣れた歩調で、男はゆっくりと回廊を下る。その膝丈まで、そこにある岩を集めて幽谷をつくったかのように、針のような岩が佇んでいた。地底より滲む光が、仄青く、ちいさな渓谷を濡らす。肺をすら満たす水は、夜に凝って露となり、なめらかな天蓋から艶を撒いていた。
 ゆらゆらと靡く紅が、抱き上げられてふるえる蝶の翅が、徒に幽谷をかすめ、舞い遊ぶ。
 少女の耳が水音を拾った。己を抱き上げる男の、乱れることのない歩みにあやされながら、少女は首を伸ばす。
 洞の弧にさざめく光は濃さを増していた。薄い影めいた青白さが、はしゃぐようなちらつきに上塗りされる。
 いつしか、蓬髪の男は崖沿いの細い道を歩いていた。崖下では、捻り飴のような、渦潮のようなかたちをもって、岩が静止している。洞に彷徨う仄青さは、そこここにある岩の裂け目から湧き出していた。
 青白い炎が、少女の目にうつりこむ。足場すら一瞥することなく、男は歩を進める。潤んだ透明が吹き上がり、男は眉をしかめた。漂っているそれよりも鋭く鼻を刺したものに、虚をつかれた少女は噎せ返る。波のように重なる衝動を抑えようと、唇を塞ぐ布に少女は歯を立てた。
 歩をゆるめることのない男は、洞の奥を見据えたまま、青白い埋火のもとへと坂をくだっていく。燻る硫黄は洞を舐め、湿気に崩れた風が男の頬を弄った。
 うねる岩の束を、その奥で蠢く熱を、瞠った目で少女は見つめる。仄青い地底の海原を男は滑り抜ける。
 やがて、埋火の残滓すら背負わなくなった頃、男の足は土を踏み、少女は割れ目に星を見た。
 花の香が、蜜の香が、土の香が、水の香が、早熟の種の香が、爛熟の果実の香が、少女と男を包みこむ。小鳥の眠る梢の下を、蝶の休む蕾の下を、果樹の間を縫いながら、蓬髪の男は歩んでいった。男に抱き上げられたまま、少女は目をまるくする。
 樹木の綾の先には川があり、その畔では破屋が傾いでいた。
 川に面した破屋の軒に、蓬髪の男は少女を座らせる。屈めていた身を持ち上げる折に、男は濡れた布を少女の手から抜き取った。

「ここで待ってろ」

 高いところから落とされた声に、少女は困惑を滲ませる。踵を返しかけた蓬髪の男を、脅えるように、躊躇うように、少女は呼びとめる。翅のふるえるような呼びかけに、肩をすくめながら、男は少女に向き直った。

「種守ってのは、俺がしていることに冠されている名だ。ここは、この洞の中は、外よりも暖かいから、作物も、樹木も、ほんのちょっとだけ季節に絡めとられずに育つ。ここで狂い咲いてるやつらの種を集め、その種を絶やさぬようにすること。どこかの邑で種が絶えたら、この邑から差し出してやれるようにしておくこと。それが、種守のしていることだ。だから、俺そのものは名無しさ」

 霧雨のように舞い降る花弁が、男の蓬髪を撫でていく。裂け目を天とする、いびつな玉の底で、男は哂った。

「どうして?」

 瞬きを繰り返す柘榴の目が、男を見つめる。晴れやかに、華やかに、男は笑んだ。

「俺は、邑に禍を為す忌み子だからな」
「この邑の糧をつくっているのはあなたなのに」
「種守ってのは、忌み子がやるものさ」

 息を詰まらせた少女の眼を、盈虚の覗く天の裂け目へと、片腕を掲げることで男は導いた。竹林の根の奥に埋もれている巨大な洞の底から、少女は星辰を見上げる。薄布めいた土の層が洞の壁を覆っていて、天を穿つ割れ目は、花や果樹の絢爛を裂く創傷のようでもあった。

「あそこに口があるだろ。ここと外をつなぐ口。時折、さっき通ってきた道のあたりから山の熱が噴き出して、あそこから吐かれていくんだ。その時に、大方、呑気に狂い咲いてるこいつらと一緒に種守も息絶える。そこで、次の種守は――もしくは、生き残ることができた種守が――土をつくるところからはじめるわけさ。実ってたものの種は邑の倉にあるからな」

 蝶が彷徨うように、紅が踊った。緩慢に戻される男の腕を、ちいさな両手が挟む。驚愕に腕を強張らせる男になどかまわず、やわらかなてのひらが洗い晒しの袖を包みこんだ。地を見つめる目を縁取る睫毛が、あどけない頬に影をおとす。男の鼓膜を、淡泊な囀りがふるわせた。

「あなたは、ひとりなの?」
「今はな」
「どうして、あなたは忌み子なの?」

 やわらかな指先が、布越しに、男の腕の筋を撫でる。男は半端に唇を持ち上げ、完熟の甘さと肺を刺すざらつきを吸いこみ、蜜と花粉の香に噎せかえる前に口を噤んだ。果樹の網に生る苹果のあおさも、玻璃の欠片が突き刺さったかのような月光に曝されている、滝のようにたわわに群れる茘枝の朱も、水をかためたかのような葡萄の翡翠も、蝶を誘う白や黄の花弁も、球体の裡に沿って根を這わせるすべてのものが、軋み、そよぎ、静寂に囁きを落としていく。
 するり、と、少女の指先から男の腕が抜けた。少女は面を上げる。黒檀の髪が、絹糸のように艶めいた。
 蓬髪の男が踵を返す。

「さぁな」

 気のない残響が、少女の耳にまとわりつく。遠ざかる背を映す柘榴の目は、冷笑の残像に揺れていた。

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