夢見鳥と映日紅05




 瓢を提げた男が足を停める。踏みしめられた地には、貪欲に水を呑み干す岩が襞となっていた。襞のそこここに転がっている、黒とも灰ともつかない色彩を呈する脆い巌に、樹木の根が絡みついている。人の腕よりも太いそれは、瀑布をかためた氷のごとく、巌を締め上げ、亀裂にもぐりこみ、実りを得るための滋養を吸い上げていた。根に支えられた幹の先の枝では、無数の蕾が眠っている。膨らんだ蕾にまぎれて咲く一輪の萼が揺れ、ちいさな花弁が風に散った。閃くように翻る花びらが、風に遊ばれ、瓢を提げた男の肩をかすめていく。男の眼前には、辛うじて対岸が見渡せる空洞と、その胎内に根を這わせる果樹の枝葉があった。桃の蕾はまどろみ、苹果の実は熟し、李の蕾はほころび、桃の実が枝を撓らせている。眠るべき刻に咲き誇り、熟れるべき刻に芽を伸ばす。醒めるべき刻に葉を落とし、実るべき刻に蜂を誘う。洞に満ちる果樹は――その空隙を埋める草木は――同族であってすら種と花がちぐはぐで、同じ枝の蕾ですら身を縮めるものと咲き誇るものが入り乱れていた。
 噎せるような蜜の香につつまれて、瓢を提げた男は歎息する。
 ほころぶことを頑なに拒み、爛漫に花冠をふるわせ、蜜をもって小鳥の嘴をもとめ、爛熟の果てに熟れ腐る。白の、黄の、淡紅の、ありとあらゆる色彩が、結晶のように、荒れ狂う。晶洞の底に迷いこんだかのような錯覚に、瓢を提げた男は苦笑した。男の眼の先には、腹を裂いたかのように口をあけている星彩がある。竹林へとつながる夜が、そこにはあった。
 歩むほどに近づく花々と、歩むだけで砕ける岩。李も葡萄も、花梨も棗も橘も、奔放に根づき、腕を伸ばしている。花弁が降りしきるほどに密な枝葉が、瓢を提げた男を見下ろしていた。男の足元では、薄く、厚く――そこに居ついた苔が夜露を弾くほどに――土が岩盤を覆っている。
 映日紅の枝をくぐり、瓢を提げた男は破屋を覗く。すると、軒の方から声がかかった。

「我が家へようこそ、哥さん」

 軒に回りこんだ兄は、片手で水蜜をもてあそんでいる蓬髪の男と、男に寄りかかって寝息を立てている少女を見つける。その両の手は、しっかりと、水蜜をつつみこんでいた。
腰掛けているふたりの前に立ち、兄は眉根を寄せてみせる。

「遅いから様子を見にきただけだ」

 愉しそうに、からかうように、弟は兄を見上げた。

「どうやってあの格子を越えてきた?」
「直しやすいよう空隙を広げておいた。あれだけ劣化してれば、格子の竹の一本や二本、私でも楽にへし折れる。それに、あれが直ったら、こうして酒を持ってくるのも難儀になるからな」

 瓢を掲げる兄に、弟の目が、呆れを孕んで、まるくなる。

「邑に戻って、酒を手土産に、またあの竹林をのぼってきたのか? 酔ってるだろ?」
「そんなことはない」

 断言する兄の耳は、仄かに赤味を帯びている。くつくつと咽喉を鳴らし、弟は笑った。兄の刺すような眼に射られても、弟は笑うことをやめない。やがて、兄は諦観をもって息を吐き、弟の隣に腰掛けた。
 星のように、雪のように、涙のように、可憐な花びらが舞い落ちる。破屋の軒から見える川の、夜を蕩かした水に囚われて、水泡とともに浮き沈みを繰り返しながら、花びらは洞の底へと流れていった。仄青い埋火の下へ、やがては竹林へと駆けてゆく流れを眺めながら、兄は瓢を弄ぶ。己の蓬髪に頬を預けて眠る少女の肩を、困惑しているような手つきで、たどたどしく、恭しく、弟は支えていた。安息そのものといった寝顔から眼を移し、弟は兄を見据える。

「騒ぎになってないのか?」
「今宵、この子の姉の嫁ぎ先の氏族が来ててな。接待をおろそかにすることはできないから、この子を捜すことには手が回らない。だから、私が手を挙げた」
「この子の姉に乞われて?」
「家人伝えだ」

 呆れを隠そうともせずに、兄は肩をすくめた。兄と同じものを漂わせて、弟は夜を仰ぐ。
 ぬるい川面を撫でた風は洞を吹き上がり、冷えた夜に触れた風は洞を駆け下りる。風に摘まれた花冠は舞い上がり、滞留に呑まれて渦を巻き、月光に曝されながら降りしきる。
 水蜜が回る手の下の、ささくれた板に瓢を置き、兄は少女の顔を覗きこんだ。

「眠っているな」
「疲れたんだろ。ひとりであの竹林をのぼってくるなんざ、この子、姉さんとやらがだいすきなんだな」

 目を眇める兄の指先を、瓢の腰に這わせた爪の先を、黒い翅がかすった。夢に遊んでいるかのように、黒の蝶は宙をたゆたう。瓢の頂きに惹かれ、栓に留まり、酒を舐めるように口をのばした蝶を、兄は一瞥した。花と蜜に満ちた大気を、弟は吸いこむ。おどけたような笑みが、弟の唇を彩った。

「その子のことは哥さんが見つけた。その子は哥さんにしか会っていない。その水蜜は竹林で拾った。ここでのすべては夢だった。そう言いくるめるのも、その子を格子の向こうに戻すのも、哥さんに任せた」

 降りしきる花冠を、夜の融けた川面が喰らう。地に転がる果実は熟れ腐り、やわらかく鮮やかな白い根が、埋まりかけた種子を土に縫いとめていた。

「このまま攫ってしまえばいい」

 崩れかけた果肉を見つめる兄の指先で、蝶の鱗粉がきらめいた。夢に遊んでいてすら水蜜を握りしめるちいさな手を、夕映えの紅を蕩かしたかのような目で、絡め取るように、いとおしむように、弟は見つめる。

「俺たちの父を継ぐ者を誰にするのか。一族において、そのいざこざは避けられてるんだろ。だったら、俺がここにいることについて、哥さんが気に病むことはねぇよ」

 ぎこちなくも優しい手つきで、弟は少女の髪を梳く。面を上げ、鏡面の片割れを見据える黒の目に、月光が透けた。紅の目に、おどけたような色が湧く。

「どのみち、俺の喰らえるような蜜は、あの邑にはないさ」

 上滑りをする音が、歪んだ唇から零れた。花弁を乗せた風が蓬髪を揺らし、微笑むように嘲るように、歪みを湛えている唇を隠す。
 美酒の詰まった瓢の上で、優美な黒の蝶が、黒耀めいた翅をふるわせた。

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