002:棄てられない【過去を持って永い未来へと】


 目の前に広がるのは地平線まで続く青い青い海。
 浜辺で子供のようにはしゃいでいるのは桑原、雪菜、蛍子にぼたん。
 夕暮れに染まりつつある海岸で貝殻を拾ったり、水をかけ合ったりして四人が遊んでいる。
 静流や 蔵馬は四人を見守るように砂浜に立っていた。
 皆が同じ時間を共有し、楽しそうに笑い合う。
 それは、本当に幸せな光景だった。

 桑原はゆっくりと目を覚ました。
 視界に映ったのは細かい模様のある白い天井。
 急に現実に引き戻されて、幸福感を一気に奪われた気がして小さく息を吐いた。
(あの日の夢を見ちまうなんてなァ……。あれからどれくらい経ったんだろう……)
 肘を支えに起き上がって、窓の外に広がる青い空をぼんやりと見つめる。
 それは、あの思い出の海に似ていなくもなかった。
(あれ? 何で浦飯がいなかったんだろ……。あ、まだ帰って来てなかったのか)
 夢で一番の戦友がいなかったことを疑問に思い、すぐに自己完結した。
 あの昼間の海で遊んだ後の夕暮れ時、やっと幽助が魔界から帰って来たのだ。
 最近の桑原はベッド穏やかな時を過ごしていることが多く、あの頃のような刺激は少しもない。
 それも悪くないと思えるようになったのは人間として生き、あれから長い時間が過ぎ去ったからだ。
 今、桑原には死期が迫っている。
 いかに強い霊力を持っていようと、これだけは免れることが出来ない人間としての宿命だ。
 あの海の日と違い、すっかり髪は白く少なくなり、顔には幾つものしわが刻まれている。
 それらは桑原が人間として生きてきた証だった。
 数か月前、病に倒れた彼は入院せざるを得なくなった。
 それから、ずっと病院生活を送っている。
 不意に、病室の戸が開いた。
「お、起きてるじゃねーか」
「こんにちは、桑原君」
「和真さん、お加減いかがですか?」
 入って来たのは幽助、蔵馬、雪菜の三人だった。
「雪菜さ〜ん。久しぶりッスね! 元気でしたか?」
 幽助と蔵馬は毎日見舞いに来てくれるが、雪菜が顔を見せるのは久々だった。
「はい! 和真さんも調子がよさそうでよかったです」
 嬉しそうに駆け寄って来る雪菜に、桑原は満面の笑みで応えた。
 桑原が年老いたように、雪菜も面差しが変わった。
 妖怪なので年をとるというよりは成長に近く、美しい女性へと変化を遂げていた。
「オレらは ムシか」
「まあまあ」
 桑原のあからさまな態度に呆れる幽助。
 蔵馬が慰めるように肩を叩いた。
 それから半時ほど四人で話をして盛り上がった。
 話題が一段落したところで、幽助が大きな欠伸をする。
「何だ、寝不足かァ?」
 毎日見舞いにやって来る幽助は近頃よく欠伸をしており、桑原は心配そうに聞いた。
「そーじゃねェけどよ、最近やけに眠いんだよなー」
 目に涙をためて答えた幽助は眠気覚ましに煙草を吸ってくる、と言って病室を後にした。
 ついでに雪菜も飲み物を買ってきます、と言い、丁寧に皆の希望の飲み物を聞いてから出て行った。
 二人ともしばらくは帰って来ないだろう。
 桑原は蔵馬と二人きりになって、近頃気にしていることを口にする。
「浦飯のヤツ、最近元気なくねーか? やけに眠そうだしよ」
「……君のことが、心配なんじゃないかな」
 言葉を濁ごすように蔵馬に言われて、桑原は遠い目をする。
「……心配、か。オレも、あいつを置いてっちまうんだよな……。
若い時は本気で『妖怪よりも長く生きてやるぜ!』なーんて思ってたけどよ、今考えると笑っちまうよなァ…………」
 なぜなら、年齢を重ねる毎に人間は妖怪と違うのだと、嫌というほど実感したからだ。
 盛り過ぎて年老いていく桑原と、いつまでも容姿が変わらない幽助。
 幽助が妖怪となってしまってから、お互いすっかり生き方も変わってしまった。
 人間として平凡に生きる道を選んだ桑原に対して、幽助は常に戦いに身を置いてきた。
 同じ人間という生き物だったのに、運命一つでこんなにも違ってしまったのだ。
 その事実を寂しく思う時もあるが、感傷的になったところで何が変わる訳でもない。
 それでも、ずっと変わらないものが一つだけあった。
 それは桑原と幽助達の関係だ。
 人間と妖怪が対照的な存在でも、出会った時と変わらず絆を重ねてきた。
「生きりゃ大切な奴らとの別れなんて何度もあるだろうが、あいつはちと特別だよな」
 きっと、他人より失うものが多いはずだ、と桑原は思う。
 彼だってまだ百年も生きていないのだ。
 しかし、幽助は意志とは関係なく、その何倍も何十倍も寿命が伸びてしまった。
 妖怪だという自覚はあっても、実感はまだ薄いのではないだろうか。
 身体は妖怪だとしても心はまだ人間寄りだろう。
 同じ妖怪でも、そこが幽助と蔵馬の違うところだと桑原は考えている。
「でもよー、今さらオレが死んだところでどってことねーよな!」
 そう言って笑い飛ばす。
 桑原が死んだとしても、幽助が大切な者を喪うのは初めてではない。
 大切な者との決別を乗り越えて、今も幽助は生きている。
「冗談でも笑えないよ……」
 自虐的な桑原の発言は蔵馬を苦笑させた。
 彼はばつが悪くなって頭をかいてから言葉を続ける。
「それに、蔵馬も雪菜さんも飛影もいるしよ、絶対独りにはならねェ。だから、大丈夫だろ」
「そうだね。でも……誰も誰かの代わりはできないから……」
 肯定し、けれどその後に続けた言葉は寂しそうな表情でこぼした蔵馬。
「……そりゃあな。あいつ、意外にもろいとこあるからなァ」
「心配?」
 蔵馬にからかうように言われ、桑原はまぁな、と素直に返した。
 母親や恋人が亡くなった時、幽助は酷く落ち込んだ。
 力になってやりたいと思ったが、人間である桑原には幽助を慰めることすら出来なかった。
 早いか遅いかの違いだけで、彼だって幽助を置いて死んでいく立場なのだ。
 結局、幽助を癒したのは時間だった。
 昔も今も自分には何も出来ない無力感はあるが、それでも。
「蔵馬」
 桑原は決意を固めて真剣な声音で名を呼んだ。
 視線を上げた蔵馬と瞳がかち合う。
「もし、あいつがどうしようもなくなったらよ……オメーが支えてやってくれねーか?
雪菜さんには荷が重すぎるし、飛影はあんまアテになんねーだろうし。
けど、オメーなら、うまく力になってやれると思うんだ。だから、頼む……!」
 桑原はベッドの上で正座して深く頭を下げた。
「桑原君……。わかった。約束するよ」
 蔵馬のしっかりとした返答に、桑原は顔を上げて安心からわずかに微笑むと体勢を崩した。
「あー、何か疲れちまった……。ワリーけど、ちょっと寝るわ……」
「ああ、おやすみ」
 蔵馬が立ち上がった。
 病室から出て行こうとした背中に、桑原は蔵馬、と呼びかける。
「すまねェな。お前には昔から頼み事ばっかりしちまって……」
「そんなことないですよ。また、明日来ます」
 言葉と共に静かに戸が閉じられた。

 その日は朝から雨が降っていた。
 ざあざあ、と止まることなく降る雨粒にうんざりしながら、桑原は横になっていた。
 雨のせいだろうか、彼の体調はあまり良くない。
 何もする気が起きず、午前中はずっと寝て過ごした。
 午後になって蔵馬が顔を見せた。
 いつもよりかなり遅い時間だったが、たまにはこんな日もあるだろうと思った矢先、
友人の表情を見て何かあったのだと勘付き、桑原は嫌な予感がしたものの恐る恐る聞く。
「……何かあったのか?」
 問いかけたが返答はなく、蔵馬から話すのを待つことにした。
 病室に響く雨音がやけにうるさく感じて、時間の流れが遅いような錯覚を起こす。
 何もしゃべらず俯いていた蔵馬が、しばらくして決心したのか顔を上げた。
 その表情は険しく、悪いことが起こったと確信するのには十分過ぎた。
「……桑原君。君に話すかはずいぶん迷ったが、幽助がまずいことになった……」
 蔵馬から切り出されたのは深い絆を結んだ戦友である幽助の凶報で、桑原が聞かされた話は非常に衝撃的だった。
 幽助が‘夢幻界’というその名の通り、夢のような幻の世界に心を囚われ、
眠り続けているというのだ。
 夢幻界はその人の夢の中にある世界で、精神的にかなりまいっていないと、まず囚われることはないと言う。
 今のままでは幽助は一生眠り続け、やがては命を落とすらしい。
 かなり危険な状態なので、早く助け出さなければいけないということだった。
 助けるためには幽体離脱をして、幽助の夢の中に入る必要があり、
これから蔵馬と飛影が助けに行くことになっているそうだ。
 一通り話を聞き終わった桑原は疑問をぶつける。
「精神的にまいってるって何でだ?」
「多分、現実逃避してるんだよ。現実を受け入れられないから夢に逃げる……」
 次に気になったのはその理由だ。
「何から逃げてるんだ、あいつは?」
「…………それはわからない。幽助に聞いてみないとね」
 さらに一番気にしていることを問いかける。
「あいつ ……目、覚ますよな?」
「……手助けはできるけど、最終的に立ち直れるかどうかは幽助次第だ」
 答えを聞いた桑原は深く息を吐く。
「しょうがねーな、あいつは。いつまで経っても心配かけやがって……」
 呆れながらもやはり心配が勝ってしまうのは桑原の性分だ。
「オレはこれから飛影と一緒に幽助を助けに行く。何か進展があったら報告するよ」
「ってオレは? 残れってのか?」
 置いて行かれるとは微塵も思っていなかった桑原はきょとんとした。
 そんな彼をよそに蔵馬からはっきりと告げられる。
「残念だけど、君を連れて行くわけにはいかない。
幽体離脱は精神と身体に負担がかかるんだ」
「だからって、ダチ見捨てるようなマネできるか!」
 桑原は当然のように食い下がる。
「やっぱり、桑原君には話さないべき、だったね……」
 後悔したらしく顔を曇らせた蔵馬。
 桑原の身体はすっかり老衰している。
 今、精神や身体に負担をかければ寿命を縮めかねない。
 それがわかっていても、桑原は迷いなく幽助を救う道を選んだ。
 戦友を見捨てるなんて選択は彼に出来るはずがなかった。
「頼む!! 連れてってくれよ! あいつ、こんなになるまで何か悩んでたんだろ?
毎日会ってたのに気づかなかったなんて、自分が許せねェんだっ」
 顔を曇らせた蔵馬からは何も言われない。、
 今回ばかりは桑原の気持ちを汲むわけにはいかないからだろう。
 蔵馬に心配されて、こんな顔をさせているのは自分だと自覚していても彼は諦められない。
「置いてっても追いかけるからな! 幽体離脱すりゃいいんだろ? どーせ行くなら一緒に行っても同じじゃねェか」
 桑原の脅迫まがいな発言のせいで、結局は蔵馬が折れるしかなかった。
 彼の性格なら有言実行すると思ったのだろう。
 身体と精神への負担を少しでも減らすため、
幽体離脱をした後に霊体のまま長時間移動しなくてもいいよう、幽助の身体を病室内へとこっそり運び込んだ。
 運ぶのを手伝わされた飛影は余計な仕事が増えた、と文句たらたらだったが。
 飛影もまた成長し、顔つきが大人っぽくなって背も伸びたため、蔵馬と二人で運ぶのは容易だった。
 準備が整い、四人の身体は雪菜が見守ってくれることとなった。
「みなさん、頑張ってください。ここで帰って来るのをずっと待っていますから」
「雪菜さん、安心してください! この桑原和真が必ずや浦飯を助けます!!」
 桑原は相変わらずで、そんな彼を見て苦笑する蔵馬と呆れる飛影。
 「はい、信じています」
にっこりと笑った雪菜に、調子に乗ってなおもしゃべり続けた桑原は、痺れを切らした飛影に蹴飛ばされた。
 もちろん喧嘩になって、それは蔵馬が制止するまで続いた。
 そして、三人が幽体離脱して幽助を助けに向かったのは喧嘩から約十五分後の話だった。
 幽体離脱をして幽助の精神に入り込んだ桑原達は夢幻界へと辿り着いた。
「ここが浦飯の夢の世界………皿中の近くか……?」
「みたいだね」
 桑原は不安そうに呟いたが、蔵馬から肯定された。
 そこは彼の母校である皿屋敷中学校の付近にあるマンションの屋上だ。
「あそこにいるぞ」
 飛影が指さしたのは中学校の屋上で、そこには気だるそうに寝転びながら制服姿でいる幽助の姿があった。
 まるで中核時代、授業をサボっていた時のようだ。
「よし! まずは話をしねーとな! 行くぜ、蔵馬、飛影」
 二人を置いて、屋上の扉を勢いよく開けると階段を駆け下りていく。
 桑原は街中に出て、中学校を目指してひたすら走る。
 近年の身体の重さが嘘のように軽やかに走れるのが不思議だ。
 走って走って、母校に辿り着いても速度を落とさず、屋上への階段を駆け上がった。
 勢いのままに扉を開けると、寝転んでいた幽助が反応した。
 今まで寝ていたのだろうか、欠伸をしながら起き上ってその場で胡坐をかく。
「誰だ、てめーは」
 真っ直ぐ疑問をぶつけられて、桑原は目を丸くした。
「何寝ぼけてんだ、桑原和真だ!」
「ハァ? 桑原はオレと同い年だぞ。こんなに老けてねー」
「老けてて悪かったな! オメーこそ、何今さら制服なんか着てんだよ」
「中学生だからに決まってんだろ」
「ふざけんのもいい加減にしろ。とっくに社会人だろうが」
「ふざけてんのはテメーだ。ぶん殴るぞ!」
「やってみろや」
 桑原が挑発した。
 すると、幽助が悪い笑みを浮かべる。
 次の瞬間、桑原は顔を一発殴られて地面に沈んだ。
 喧嘩相手に老若男女を問わない幽助は老体の彼にも容赦がなかった。
 少し気が晴れたのか、そのまま横になると昼寝を始めてまう幽助。
 この後、桑原が幾ら話しかけても狸寝入りで無視され続けた。
 一旦説得を諦めて、蔵馬と飛影の元に戻った彼は今の状況を説明した。
「とにかく話になんねェぞ、あいつ。何か中学時代に戻ってる感じだしよ」
「幽助が固執してるからだよ。理由はわからないが、この時代に執着があるんだろう。
それにしても、桑原君でもダメだったか……」
「ってか、何でついて来なかったんだよ」
 落胆した表情を見せる蔵馬に、桑原は軽く文句を言った。
「君一人に任せた方が、うまくいくと思ってね」
 小さく微笑む蔵馬を憎たらしく思って目を眇める。
「何だよ、それ。とにかく、これからどうするか考えねェと……」
 幽助のいる学校の屋上を見ながら言いかけた桑原の言葉が止まった。
 屋上の扉が開いて、そこに現れたのは茶色の髪を肩まで伸ばしている可愛らしい少女。
「お! 雪村だ。あれ? 何で雪村が??」
 黄色のスカーフに青色の制服に身を包んでいるのは確かに幽助の幼馴染の雪村蛍子だった。
「あれは幻だよ。本人じゃない」
 桑原の疑問をあっさり蔵馬が解決して、納得した彼は再び屋上の様子を見つめる。
 やって来た蛍子は怒っているようで、腰に手を当てて幽助に何か言っており、
それを幽助は面倒くさそうにしながらも起き上がって会話をしている。
 二人が痴話喧嘩のように戯れている様は懐かしく実に微笑ましい。
「ここって何でもアリなんだな。楽しそうにしやがって、のんきなもんだぜ」
「夢幻界では本人が望むことしか起こらないからね」
「フン、くだらんな。だが、ちょうどいい。幽助をムリヤリ起こすぞ」
 今まで黙って成り行きを見つめていただけだった飛影がここでようやく動いた。
「しかし、飛影……」
 蔵馬が眉を寄せて渋っているが、飛影は違う。
「このままでは何も解決しないだろうが。気が進まんなら、オレがやる」
 それだけ言うと、飛び上がって屋上から一瞬で消えた。
 幽助の元へと向かったのだろう。
「…………オレ達も行こう……」
 蔵馬は本当に気が進まないようで、険しい表情のまま屋上から移動を始める。
 桑原は状況についていけないながらも、とりあえず素直に二人の後を追うことにした。
 彼が屋上にやって来ると、すでに飛影と蔵馬が到着しており、三人が何やら会話をしている。
 桑原の姿を発見したのだろう、軽く目を見張る幽助。
「あ、さっきのヤツ。蔵馬と飛影の知り合いなのか?」
「さっきから桑原和真だって言ってんのにな……」
 幽助には聞こえないよう、独りごちた。
 飛影も身長が伸びて顔付きが若干変化しているにも関わらず、
あっさり受け入れているようなのに、なぜか桑原だけは認識されない。
 その 事実に少しだけ落ち込んだ。
「それにしても、二人してどうしたんだよ?」
 幽助の問いに答えることなく、飛影が音も立てず蛍子の横に移動した。
 手には剣が握られている。
 そして、迷いなく蛍子の胸に剣を突き立てた。
「飛影!? 何して……ッ」
 桑原は驚愕する。
 幽助も驚いていて瞠目しているが、あまりのことに声が出なかったようだ。
 飛影が躊躇なく剣を引き抜くと、蛍子の身体が前に倒れていく。
 それを駆け寄った幽助が受け止めた。
「蛍子!? おい! しっかりしろ!!」
 幽助が必死に呼びかけながら身体を揺さぶるが、幼馴染の少女からの反応はなく、まぶたも固く閉じられている。
 そんな幽助に、飛影が一歩近付き残酷な言葉を浴びせる。
「あえて急所を狙った。もう死んでいる」
 幽助が大きく目を見開いてから、視線を蛍子に移す。
 だらりと身体の力が抜けた少女の腹は真っ赤に染まっており、辺りは血の海だった。
 桑原には何故、飛影がこんな真似をしたのかさっぱり理解出来なくて、ただただ驚くしかない。
「………………。そんな……何だよ、これ……。何で、飛影が蛍子を殺すんだよ……。ワケ、わかんねェ。
こんなの現実なわけない……。………こんな現実……嫌だぁぁあああ――――!!!」
 幽助の叫びが木霊した瞬間、急激に意識が遠のいていく。
 桑原は気が付くと見慣れた病院に戻っていた。
 近くには幽助、蔵馬、飛影、それに雪菜もいる。
 心を囚われていた本人が目覚めた影響により、夢幻界から強制送還されたのだ。
「蛍子は!?」
 目覚めはしたものの、周りをきょろきょろと見回し混乱状態の幽助に、
桑原は近付こうとしたが身体が重くてすぐには動けそうになかった。
(くそ……。思ってた以上に堪えるぜ……)
 仕方なく床に座り込んでいる間にも事態は動いていく。
「やっぱり、蛍子は死んじまったのか……? 飛影、何でテメェが蛍子を……」 
 夢幻界での出来事を現実と思い込んでいるらしい幽助は物凄い形相で側にいる飛影に掴みかかって、
その表情は憎悪に満ちている。
「貴様がふぬけだからだ」
「ふざけんじゃねェ。覚悟は、できてんだろうな?」
 低く静かに問いかける声音が幽助の怒りと悲しみの深さを物語っていた。
 それに対して、飛影は小馬鹿にしたように鼻で笑う。
「覚悟? 何の覚悟だ?」
 とぼけるような飛影の態度に、幽助の怒りが爆発する。
「テメェ……!!」
「幽助さんっ!!」
 悲鳴のようにその名を呼んで、幽助の腕にしがみつき必死で止めようとする雪菜。
「邪魔すんじゃねェよ!!」
「きゃあッ」
 しかし、すぐに突き飛ばされてしまう。
 桑原は助けようと手を伸ばすが、身体が言うことを聞かない。
 スローモーションのように雪菜の身体が壁に向かっていくのを視界でとらえた。
 間に合わない、と思った瞬間、ぎりぎりのところで飛影が受け止める。
 それを見て桑原は安堵の息を吐いた。
「あ、ありがとうございます」
 飛影は無言で表情も変えず、ただ幽助を見つめている。
 けれど、邪眼師から僅かに怒気が滲み出ているのは気のせいだろうか。
 そんな飛影を幽助が鋭い眼光で睨んでいる。
 このまま、こう着状態になると思われたが、幽助の右人差し指が淡く光り始める。
 こんな場所で霊丸を使う気なのだ。
 どんな惨状になるかは想像に難くなく、桑原は顔面蒼白になる。
 止めようとしたが、それより早く蔵馬が動いて幽助の側まで歩み寄ると肩に手を置く。
「幽助、落ち着いてくれ。飛影は君のために……」
「オレのため? 蛍子を殺すことがか!?」
 幽助がかみつくが、蔵馬の方は冷静だ。
 いや、幽助以外、皆が冷静だろう。
 夢幻界に心を囚われていないのだから。
「……彼女はもうとっくに亡くなっただろう。
君が、その事実を忘れてしまっているだけで……」
「何が言いてェんだ、てめーは」
 冷静に告げられて、幽助の顔がさらに険しくなる。
「言葉にした通りだよ。雪村蛍子はついさっき飛影が殺したわけじゃない。
その事実を認めない限り、一生このままだ」
「ふざけんなッ!!」
 腕を振り上げた幽助の指先から強い光が放たれる。
 蔵馬がすれすれで避けると、光の弾は窓硝子を容易に突き破って辺りに破片を散らし、空の彼方へと消えて行った。
 これは確実に大騒ぎになってしまうだろう。
 けれど、そんなことよりも桑原は怒りに震えており、もう我慢ならなかった。
 事実を忘れてしまった、現実を受け入れない、現在から逃げ続けている、今の幽助が。
 桑原は命令を無視しようとする身体に鞭を打って立ち上がる。
 それから、よろよろと幽助に近寄ると容赦なく鉄拳を振り下ろした。
 無防備な状態でもろに食らったからだろう、流石の幽助もしゃがみ込んで痛みで呻いている。
「雪村は死んだ。オメーが看取ってやったんだろうが。
いつまでも寝ぼけてんじゃねェ!!」
 怒鳴ってから数秒後、幽助が何かをぼそりとこぼしたが、桑原の耳には届かなかった。
 聞き返そうとしたものの 幽助が勢いよく病室から飛び出し、入れ替わるように数人の看護師が駆けつけて来た。
 案の定、大騒ぎになってしまい、対応に追われた桑原達は誰一人幽助の後を追うことが出来なかった。

 それから数日後、ようやく幽助が発見された。
 眠ったままの、夢幻界に囚われてしまった状態で。
 桑原は、また蔵馬と飛影の手によって病室に運び込まれた幽助の寝顔を見つめている。
 こうしていると、ただ眠っているようにしか見えず、この瞬間にも命が削られているなんて、とても思えない。
 いや、思いたくはなかった。
「もう、あまり時間はないだろう。桑原君は、どうする?」
 最初の時と違い、蔵馬から選択を迫られた。
 そんなことを聞かれなくても桑原の心はすでに決まっているが。
「もちろん、オレも行くぜ」
「次は死ぬかもしれない。それでも……?」
 言葉と共に真剣に問いかけてくる翡翠の瞳に、桑原は爽やかな笑みを向ける。
「愚問だな」
 死期の近さは自分自身が一番よく理解しているつもりだ。
 それでも、迷いは一切なかった。
 ここで幽助を見捨てれば一生後悔するから。
 理由はそれだけで十分だった。
 蔵馬がまぶたを伏せて息を吐き出した。
 桑原の説得を諦めたのだろう。
「……まったく、いつまで経っても世話のやける野郎だ」
 立って腕組みをした姿勢のまま仕方ない、といった感じでぼやく飛影。
 実に面倒くさそうだが、今回もついて来てくれるらしい。
 こうして、桑原、蔵馬、飛影の三人は再び夢幻界へと旅立った。
 幽助はやはり学校の屋上にいて、曇り空を眺めるように顔を上げてぼんやりとしていた。
 桑原達が姿を見せると、空を見るのをやめて視線を寄こしてから小さく呟く。
「……桑原」
「やーっと、わかるようになったか」
 どうやら現実と空想の区別は付くようになったらしい。
 おそらく、桑原の叱咤が効いたのだろう。
「浦飯。病院から飛び出す前、何て言った?」
 桑原はそれがずっと気になっていて、
本能的に聴いておかなければいけないような思いがしていた。
「………………オメーまで、いなくなんなよ」
 ぼそりと囁かれたのは切ないほどの願い。
 ここで桑原はやっと理解して、表情をきつく歪ませた。
 幽助が逃げていた現実は‘桑原和真の死’なのだと。
「…………ワリーけど、そいつはできねェ相談、だな」
 前回の時に彼だけを認識出来なかったのは現実逃避故で、
老いた彼を認めないことで現実から逃げていたのだのだろう。
 かけるべき台詞が見つからないとはこのことだ。
 どんな言葉を並べても幽助を慰められない気がする。
 原因である‘桑原和真’という人間には。
「幽助。貴様から妖気を感じんぞ。なぜだ?」
 飛影の言葉で、桑原はその事実に初めて気付かされた。
 幽助の身体から感じ取れるのは妖気ではなく霊気だったのだ。
「君は……人間でいたかったのか、幽助」
「……そうだよ。好きで、妖怪になったわけじゃねェ」
 静かに確認するような蔵馬の問いかけに肯定した幽助は本当に寂しそうだった。
「人間でも、妖怪でも、オレはオレだけど……大事なヤツらとは同じ時間を重ねられなかった…………」
 それは目の前にいる桑原だけではなく、すでにこの世にいない幼馴染の少女も指しているのだろう。
 先日見た、幽助と蛍子は本当に微笑ましかった。
 幽助の描く夢幻界が中学時代なのは運命が変わった分岐点で、
ここから人生をやり直したいという思いの表れなのかもしれない。
 十四歳の時、霊界と関わり合いにならなければ、ただの人間としての人生を過せた。
 それは平凡で、細やかで、刺激のない一生だが、
今の幽助には決して手に入れられない一番の望みなのかもしれないと思うと、桑原の中で切なさが募る。
 それでも、彼は絶対に認める訳にはいかないのだ。
 認めてしまったら、幽助の死をも受け入れることになってしまうのだから。
 弱弱しく座り込んでいる幽助の胸倉を掴んで力任せに引き寄せる。
「だからって、 テメェはこのままずっと逃げ続ける気か!?
有りもしない過去にすがりついて、本当の過去も、これからの未来も、まとめて捨てちまうつもりか!?
それで満足なのかよ?!」
 力の限り怒鳴ったが、幽助からの反応はない。
 痺れを切らした桑原は怒りに任せて叫ぶ。
「答えやがれッ!!」
「…………情けねェのは、わかってる……。けど……ここにいれば何も失わずにすむんだ……」
 思わず舌打ちする。
 桑原が友情を重ねてきたのはこんな男ではなかったはずだ。
 いつでも彼の前を走る目標で、無茶苦茶な生き方だけれど、格好いい。
 人間から妖怪になってしまった時も、こちらが拍子抜けするほど簡単に割り切ってみせた。
 それなのに、今になって負けてしまうのだろうかと思うと、悔しくて堪らない。
 幽助の孤独や恐怖がどれほどのものか桑原には想像し難いが、何としても打ち勝って欲しいのだ。
「頼むから、これ以上……オレを幻滅させるなよ……」
 桑原は苦しそうに吐き出した。
 すると、項垂れていた幽助が顔を上げて瞠目する。
「…………浦飯……?」
 呼びかけるもそのまま固まったように動かず、軽く揺さぶってみるが焦点が合っていない。
 そのまま数分流れてから、やっと桑原と幽助の瞳がかち合った。
「…………………………オレ……オレ、頑張るわ。いつか、あっちにいった時に胸張っておめーに会えるようにさ」
 長い沈黙の後、しばらくぶりに見た戦友の微笑みは胸を締め付けられるようなものだったが、
確かに立ち直ったのだと桑原は感じ取った。
 刹那、身体に違和感がして、彼に言いようのない虚無感が襲う。
「……ッ!? ………………」
「……桑原?」
 何も言い返さないのを訝しんだのか、幽助からの呼びかけがあった。
 一度外していた視線を戻した桑原は更に顔を近付ける。
「その言葉、絶っ対忘れんじゃねェぞ。忘れやがったら地獄から這い戻って殴り飛ばしてやっからな」
 現実を悟って、それ故に真剣な声音で幽助に念を押す。
「……ああ」
 瞳を合わせたまましっかりした肯定が返ってきて、安心した桑原は幽助の胸倉から手を放した。
「よ〜し、これにて一件落着! せっかくだしよ、海でも見てから帰ろうぜ」
「桑原君ッ!」
 名を呼ばれることで蔵馬から非難を受けたが、桑原は意に介さず軽い調子で微笑しながら言う。
「ちょっとくらい、いいじゃねェか。もう二度と、夢幻界(ここ)には来ねーだろうしな」
 だからこそ、見ておきたくなったのだ。
 目が合うと、珍しく翡翠の瞳が大きく揺らいでいる気がしたが、桑原は気付かないふりをする。
 蔵馬にはそれ以上、何も言われなかった。
「海行くって言ってもよー、ここから遠……おおっ!?」
 幽助の驚きと同時に景色が変化した。
 目の前に広がるのは青い青い海に、彼方まで続く地平線。
 桑原達は浜辺に立っていた。
「行く手間は省けたな。本当に便利な世界だぜ」
 そう言った後、海には興味がないらしい飛影は手近にある木に飛び移ってしまった。
 おそらく、昼寝でもして時間を潰すつもりなのだろう。
 波音が支配する空間で、桑原はゆっくりと幽助に近寄った。
「なぁ……立ち直った理由、聞いてもいいか?」
 一瞬、幽助の視線を感じた気がしたが、すぐに逸らされたようだった。
「おめーさ、戸愚呂に殺されそうになった時と同じセリフ言っただろ。あれで色んなこと、思い出したんだ」
 意識はしていなかったが、言われてみると確かにそうかもしれないと思った。
 あまりにも昔過ぎて記憶が定かではなかったが。
「人は、時間と闘わなくちゃならねェ。オレは、独りじゃない。誰のために強く……」
 一つ一つの言葉を噛みしめるように紡ぐ幽助。
 桑原は知る由もなかったが、これは幻海が戸愚呂に殺された時の遺言だった。
「ここで逃げたら、戸愚呂と同じになると思った。だから、オレは逃げねーよ」
 ‘逃げない’とは苦しくても生き抜くということだ。
 人間から妖怪になってしまった幽助にとっては長く辛い道になるのは間違いない。
 それでも、海に向かって誓う姿は男らしく様になっていた。
(ったくよォ、こいつはここに辿り着くまでが長ェんだよなァ。まあ、昔からだから仕方ねェか)
 安心半分、呆れ半分の息を吐いた桑原の耳に、遠くから笑い合う声が聞こえてくる。
 明らかに蔵馬と飛影ではなく、女性のものだ。
 桑原は声のする方向に振り返る。
 そこには、いつの間にか皆がいた。
 蛍子、雪菜、静流にぼたん。あの海の日そのままの、夢ような光景。
(正夢……いや、浦飯と飛影がいるから違うか)
 けれど、夢で見た時よりもずっとずっと幸せな光景で、桑原に心からの満足感を与えた。
 ふと、彼はふとあることを思い付いて、内心で小さく意気込む。
「ゆっきなさ〜ん!」
 遠くから手を振って呼びかけると、雪菜が振り向いて駆け寄って来た。
「和真さん! 何ですか?」
 現在と違い、若い雪菜に首を傾げながら微笑みかけられて、桑原は真面目な表情になる。
「男、桑原和真は…………雪菜さんのことが世界で……いや、宇宙で一番愛しています」
 突然の告白に雪菜は数回瞬いて、それからとても綺麗な笑顔を見せた。
「はい、私も和真さんのこと、愛しています」
 深い意味はないのかもしれないが、想像もしなかった返答で今度は桑原が瞬く番だった。
「え、え〜っとぉ……」
 照れてしまって、どう続ければいいか思いつかず、頭をかきながら言葉を濁す。
 すると、今度はぼたんが雪菜を呼ぶ声が聞こえて、桑原の最愛の人はその場から離れてしまった。
「うおっ」
 首に腕を回してきた幽助の重みに驚き、桑原は軽く呻いた。
「な〜にコクってんだよ。どうせなら帰ってから言えってんだ」
 薄笑いを浮かべている幽助は実に楽しそうだ。
 少々しゃくにさわったが、一瞥するだけに止める。
(バーカ、ここだから言えたんだよ。…………さらばです、雪菜さん。どうか、お幸せに……)
 それが桑原にとって最後の、心からの願いだった。

***

 幽助はゆっくりと目を覚ました。
 視界に映ったのは細かい模様のある白い天井。
 随分と寝ていた気がするが、意識も気分もすっきりしていた。
(……何か、一年くれー寝てた気がすんな)
 不意にカツン、カツン、と不規則な音がして幽助が見やると、雪菜が涙を流している。
 氷女という種族で氷泪石のこともあり、滅多には泣かない強い性格だ。
 そんな雪菜が隠すこともなく氷泪石を生み出し続けている事実に幽助は目を見張った。
「…………ふっ……くっ……うっ……かず、まさん……ッ……」
 泣いているのは雪菜だけではなく、いつの間にかいたぼたんも止めどなく涙をこぼし続けている。
 その横にはコエンマもいて、流石に泣いてはいなかったが、それでも苦しそうな表情で部下の肩を叩く。
「……ぼたん。お前がしてやれる、最後の仕事だ。……しっかりな」
「……ッ……はい」
 ぼたんは泣きながら櫂を出現させると、窓から外へと飛び立って行った。
「おい、どういうことだよ……」
「…………桑原が亡くなったのだ。
元々、あまり寿命は残っていなかったが……今回、幽体離脱した影響で一気に肉体に負担がかかってな」
 桑原が幽体離脱をした理由。
 しばらくぶりに目覚めた幽助には状況がさっぱり理解出来ていなかったが、嫌な予感がした。
「まさか、オレのせいだって言うのか……?」
「そういう言い方も出来るな。桑原自身は、そうは思っておらんだろうが……」
 先ほどから幽助にはコエンマの言葉がとても信じられない。
 いや、信じたくなかった。
「冗談、だろ……?」
 現実を受け入れられないまま、ふらふらと桑原が横たわっているベッドに近付いていく。
「みんなで、オレを騙してるんだよな……? もう騙されねーぞ」
 過去、何度も桑原に騙されているがために出てきた台詞だった。
 覚束ない足取りで少しずつ、けれど確実にベッドへと進んで行く。
「ほら、早く起きろよ、桑原……!」
 祈るような声音で呼びかけたが、雪菜がすすり泣く音以外は静かだった。
 そして、ついにベッドへと辿り着く。
「……桑原ァ!!」
 幽助の悲痛な叫びが病室に響いたが、もちろん応える声はない。
 桑原は目を閉じて安らかに眠っているだけだ。
「おい、何とか言いやがれッ! 勝手に死ぬなんて許さねーぞ!!」
「幽助!」
 乱暴に桑原の胸倉を掴み上げて引き寄せた幽助を蔵馬が止めに入った。
 止められた彼は肩で息をしながら茶の瞳を揺らしている。
「桑原君の死は、幽助だけのせいじゃない。彼を止められなかったオレにも、責任はある」
 信じたくない言葉を聞いて、幽助はゆっくりと振り返った。
「……知ってたのか? 幽体離脱したら桑原が死んじまうって。それなのに、てめェは止めなかったのかよ!?」
 俯いて否定しない蔵馬。
 幽助は舌打ちし、怒りのままに殴り付けて、抵抗しなかった蔵馬は綺麗に吹っ飛んだ。
 壁にぶつかって鈍い音を立てる。
「何で止めなかった?!」
 なおも責める幽助は殺気を膨らませて鋭い眼光を向ける。
 顔を上げた蔵馬は苦しげな表情をしていて、それは単に痛みのせいだけではないだろう。
「……すまない。オレと飛影だけでは目覚めさせる自信がなかった。
君が苦しんでる理由はわかっていたから……桑原君しか助けられないと思ったんだ」
 正直に告白した蔵馬に、幽助の力は抜けた。
 軽く瞠目してから数歩下がる。
 蔵馬や飛影に非はなく、全ては自分のせいなのだと悟った。
「…………なぁ、桑原はいつ……?」
「おそらく、海に行く直前に……」
「だろうな。あいつに違和感がしたのはその時くらいだ」
 蔵馬と飛影が同じ意見で、幽助はその時の様子を思い出した。
 確かに、今思えばおかしかったかもしれないと思う。
 けれど、今さら気付いたところでどうしようもない。
 幽助は桑原に視線を向ける。
 改めて覗き見た戦友の死に顔は穏やかで幸福そうだ。
 それでも、死なせてしまったという重い事実の前に、それは慰めにはなりはしない。
 ベッドに手をついて俯いた幽助の茶の瞳から、ついにしずくが流れ出す。
「…………くっ………………オレの、せいだ……。オレが……情けないばっかりに、桑原が……ッ…………」
 幽助の涙も枯れることを知らなかった。
 辺りには二人分の小さな嗚咽だけが響く。
「幽助……。桑原君を喪って『オレ達がいる』とは言わないよ。誰も彼の代わりは出来ないからね。
それでも、君は独りじゃない。それだけは忘れないでくれ……」
 蔵馬が言葉を紡いだ後、幽助と雪菜が泣く音以外、静寂が支配した。
 頭では理解出来ても心が拒む。
 幽助が蔵馬の慰めを素直に聞き入れるには時期尚早で、ただ時間だけが過ぎていった。
 ――唐突に、何かをぶつけるような軽い音が数回して、
それでも幽助は顔を上げることなく涙を流し続けていたが、誰かが窓を開けるような音もした。
「うおっ、せめェな。どんだけデカいんだよ、プー助は」
「諦めんか。どう考えてもムリだ」
 冷静なコエンマの声が耳に届いた。
 その前にしゃべっていた声にも聞き覚えがあったものの、幽助の思考は追いつかない。
「仕方ねェ。みなの衆、見て驚け! 桑原和真様の登場だ!!」
「……は?」
 流石の幽助も涙が引っ込んで顔を上げた。
 目の前にいるのは間違いなく霊界獣のプーだ。
 しかし、いつもと違って目つきが悪く、馬鹿みたいに高笑いをしている。
「……桑原、なのか?」
 幽助が目を丸くしながら尋ねると、霊界獣からおうよ!と返事があった。
「な、何でプーに……」
「何でだと? そんなの、てめェが舌の根も乾かねーうちに、約束破りやがったからだろーが!!
何のために 夢幻界まで助けに行ってやったと思ってんだ、このアホ!!」
 窓から精一杯伸ばされた首の先にある鋭いくちばしで、幽助は頭を高速でつつかれる。
 怒っているためか、容赦のない攻撃だ。
「いていていていていて、いてェな、この野郎!! ……あっ」
 桑原を殴り飛ばした幽助はすぐに我に返ったが、すでに後の祭りだった。
「桑原君ッ」
 霊界獣はそのまま落下して行き、焦った蔵馬とぼたんの声がかぶった。
 幽助が冷や汗をかいて、数秒後。
「…………ふ〜〜〜。鳥じゃなかったら危ないところだったぜ」
 翼を羽ばたかせながら上昇してきて安堵の息を吐く桑原。
 意外にのんきな鳥を見て、幽助はもちろん皆が脱力した。
「そういう問題か?」
「バカめ」
「……ふふっ」
「もう、びっくりさせないでおくれよ〜」
 コエンマが呆れ、飛影が吐き捨て、雪菜が笑いをこぼし、ぼたんが胸を撫で下ろす。
 窓に駆け寄って来ていた蔵馬も小さくため息をこぼした。
「和真さん……。よかった……」
 側に寄やって来た雪菜が霊界獣の首に腕を回して、優しく抱きしめた。
「それと、約束を守ってくださって、ありがとうございます」
「……雪菜さん。オレに言う資格はないかもしれませんが、貴方に涙は似合いません。
だから、どうか……笑っててください」
「……はい」
 雪菜は深紅の瞳を潤ませながらも綺麗に微笑んで見せた。
 それから、名残惜しむようにゆっくりと離れる。
 一部始終を見守っていた幽助は視線を寄こした桑原としっかり目が合った。
「浦飯。……もう忘れんじゃねーぞ」
 桑原から言われたのはこの一言だけだった。
 幽助は頷く。忘れっぽいが、今度こそ誓いを違えないように想いを込めてしっかりと。
 それを見たからか、桑原の口元が満足そうに綻んで、幽助も口元を緩めた。
「……オメーには、何度も助けられたよな」
 懐かしむように遠くを見つめて、過去を振り返る。
 乱童の時も、戸愚呂の時も、桑原がいなければ幽助は今ここにはいないだろう。
 それだけ大きな存在だった。
 だからこそ、夢幻界に囚われるほど気持ちが落ち込んだ。
「ホントだぜ。これからは、そんなわけにはいかねェからな。ま、蔵馬にでも迷惑かけろや」
「何で、迷惑かける前提なんだよ」
「そりゃ〜、浦飯だからなァ」
 桑原の台詞に口をとがらせた幽助だが、結局茶化されてしまった。
「何だと、このヤロー!」
 横では蔵馬がわずかに笑いをもらしている。
 幽助は気にせず霊界獣の首に飛びかかったが、かわされてしまい、桑原はそのまま大空へと飛び立った。
 青い背中が遠ざかって空に溶けていく。
「……ありがとな」
 幽助はもう届かないとわかっていても切なげに小さく呟いた。

 ほどなくして桑原の葬儀は仲間内だけでしめやかにとり行われた。
 その帰り、幽助は蔵馬と当てもなく歩いている。
「そういや、殴っちまって悪かったな」
「気にしてませんよ」
 蔵馬が軽く微笑んだ。
 顔を上げると、幽助の心情とは裏腹に空は雲一つなく晴れ渡っている。
 桑原の死は納得した。
 けれど、誰かを喪う独特の寂しさはなかなか埋められそうにない。
 これで本当に、‘桑原和真’という男は幽助の前から永遠に消え去ってしまったのだ。
 不意に、風が凪いで幽助の短い黒髪を弄ぶ。
「あーあ、魔界に行こうかなァ……」
 空を眺めながら、幽助は投げやりにこぼした。
「人間界を、捨てるんですか?」
「……別に捨てたいわけじゃねーけど、もうここには守りたいもんもねーし」
 幽助は何となく、責められているような気がして曖昧に答えた。
「あんまり後ろ向きなこと言ってると、また桑原君に怒られますよ」
「……はは、そーだな」
「君がどこでどうやって生きていくかは自由だけど、後悔だけはしないように」
 蔵馬の台詞からは幽助が本気で魔界に行くなら止める気はないのだと感じた。
 それが寂しいような、安心したような、何とも言い難い複雑な気持ちになって彼は俯く。
「……うん。蔵馬は魔界に行く気はねーのか?」
 幽助が言ったのは一時的な意味ではない。
 魔界に永住しないのか、と問うているのだ。
「今のところは」
 問いの意図に気付いて蔵馬が答えたのかはわからないが、
翡翠の瞳を見て自分とは違い、迷いはないのだと幽助は感じた。
「何で?」
 幽助はずっと不思議に思っていた。
 もう何年も前に蔵馬には‘守りたいもの’が人間界からなくなったはずなのに、未だにここで生活を続けていることが。
 魔界生まれの蔵馬が魔界を永住したくないほど嫌っているとは思えないし、一時的であれば何度もそこに赴いていた。
 もっとも、それは幽助も同じで、人間界で生きながらも二人には魔界も必要な世界なのだ。
 幽助の疑問に、蔵馬から返答があったのは少し経ってからだった。
「………………過去を……捨てられないから、かな」
「……過去?」
 聞き返した幽助に、蔵馬から一つ頷きがある。
「生きている限り未来に向かって進むしかないけど、どうしても捨てられない過去がある。
……オレは人間界に来て変わった。‘大切なもの’をたくさん知った。もちろん、いいことばかりじゃなかったけど。
でも、どれも捨てられないから、まだここにいたいと思う」
 そう言った蔵馬の表情が穏やかで、満足そうで幽助には眩しく感じる。
 たとえ大切な者がいなくなっても捨てられないという気持ちが、幽助には何となく理解出来る気がした。
 人は何かを喪っても、過去にあった想いや思い出が消えてしまう訳ではない。
 だから、簡単には捨てることが出来ないのだ。
「……そっか。オレも捨てたくねェなァ。捨てろって言われても、捨てられねーかも……」
 幽助は自身で言葉にして、人間界がどれほど大切なのかを今さら自覚した。
 人間界で生まれて、育って、突然自分が死んだ時、‘守りたいもの’が出来た。
 初めて独りではなかったのだと実感した。
 それから、仲間と呼べる友に出会って、強敵の戸愚呂と闘った。
 必死で縋り付いて守ろうとしたものがあった。
 元霊界探偵の仙水とも闘って、‘闘う理由’が変わっていっても、‘守りたいもの’だけは絶対に変わらなかった。
 ‘捨てたくないもの’は、これまでもこれからも全て人間界(ここ)にあるのだ。
「なら、君はまだ、人間界にいるべきなんじゃないかな」
 蔵馬に言われて、幽助はそうかもな、と答えてから振り返る。
「じゃあさ、一緒に生きてみるか? 過去を捨てたくなるまで、ずっと人間界(ここ)で」
「……いいですね。お伴しましょう」
 微笑んだ蔵馬が近付いて来て、幽助は合わせるように肩を並べる。
 戦友の死を乗り越え、一番大事なことを思い出せたから、やっと彼はいつものように歯を見せて笑った。
 そして、二人は一緒に歩き出す。
 過去を持ったまま、永い永い未来へと………………。


END.

2014.05.31.



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