「京治・・・」
声で確信していたけど振り向けば予想通り彼が居て、その姿を捉えると同時に足が縫いとめられたように動かなくなった。
「何かあった?」
包み込むような優しさを含んだ声。
さっき向けられていた視線とは違い、気遣うような柔らかな眼差しに鼻がツンとして、堪えていた涙が零れ落ちそうになる。
「・・・何でもない」
「何でもないって顔じゃないけど」
自分がどんな顔をしているのかなんて分からないけど、指摘されるくらいには酷い顔なんだろう。
どうして追いかけてきたの?そう聞けたら良いのに・・・答えを聞くのが怖い。
彼の返答次第では、呑みこんだ言葉が抑えきれずに溢れ出てしまいそうだ。だから結局、堪えるように歯を食いしばるしかなかった。
「黒尾さんと・・・喧嘩した?」
聞き辛そうに言葉を発しながら一歩一歩距離を詰めてくる京治の気配を自分の爪先を見たまま感じていると、視界に京治の足先が映りこみ、彼が目の前まで来たことが分かった。
そして次の瞬間、あろうことか俯いている私の顔を覗き込むように見てきて視界いっぱいに京治の顔が映りこむ。その近さに・・・気遣うようなその表情に、心臓がギュっと握りつぶされたみたいに痛んだ。
「ちがう・・・」
弱々しく発せられる声は自分の声じゃないみたいで。壊れた機械のようにただ首を横に振り続けるだけだった。
「じゃあ、俺のせい?」
けれど、その言葉に驚いて逸らし続けていた視線を自分から合わせてしまった。
ぶつかった視線。京治の問いに答えなければと思うのに、黒い瞳に吸い込まれるように見入ってしまい言葉を紡ぐことが出来ない。京治の表情から、視線から微かに伝わってくる想いは・・・自分が抱えているものと同じようにも思う。
でもやっぱり自惚れのような気もして、結局何も言えずにいれば、浅い溜息が目の前から聞こえた。
「だったら嬉しいけど、違うか」
「え、」
「余計なお世話かもしれないけど、葵はもう少し素直になった方がいいよ」
いつも難しく考えすぎだからね。
ポン、と優しく頭を撫でた後、指で髪を梳くようにスルリと流してから離れていく手。付き合っている時に何度かしてくれた時と同じ・・・変わらない触れ方に、あんなに堪えていた涙がボロッと零れてきた。
手を離した後に「じゃあね」と踵を返した京治は私に背を向けていたからこの涙は気づかれてはいないだろう。
これで、終わり。
会おうとしない限り、きっと会うことは無い。
そう思えば涙が堰をきったように溢れ出し、パタパタと地面へ吸い込まれていく。
「っ、・・・」
やっぱりそんなのは嫌だ!と心が叫んだと同時に、縫いつけられていたように動かなかった足が地面を蹴った。
そして殆ど衝動的に昔一度離してしまったその手を掴む。
「っ!・・・どうした?」
「嘘なの・・・」
「え?何、」
「黒尾くんと付き合ってるって言ったの、嘘だから」
引き留められた事で振り返った京治は、涙に濡れた私の顔を目にして驚いたように目を見開く。
突拍子のない言葉を発する私に疑問の声を上げた京治だけど、それに被せるようにして誤解を告げれば、分かりやすく息を呑んだ。
「それって・・・」
掴んでいた手とは逆の手が頬に当てられて、親指で優しく涙を拭われる。
大きくて、温かくて、優しい手。その心地よい感触を目を瞑って受け入れていれば、遠くで笛の音が聞こえた。
きっと休憩が終わりの合図だ。まもなく練習が再開されるんだろう。その証拠に京治が「あ、」と小さく声を漏らした。
時間切れの合図にズッと一回鼻を鳴らし、笑顔を作り出す。今日はこうして話せただけでも満足だ。
もしかしたら京治の中にもあの時の気持ちが残っているんじゃないかって期待も持てたし、自分で蒔いた種である黒尾くんとの誤解も解けた筈。最初は何てことしてくれたんだと思っていたけれど、後でちゃんとお姉ちゃんと黒尾くんにお礼も言おう。きっとまた京治と会う機会はあるはずだし、その時に玉砕覚悟でもう一度自分の気持ちを伝えてみよう。
いつも逃げ腰の私にしては珍しく前向きな気持ちになれて、だからこその笑顔も浮かべられた。
「葵」
「ん?」
「連絡先とか変わってない?」
それでも予想だにしなかった京治の言葉には反応出来なくて、瞬きを繰り返しながらその意味を図りかねていれば「連絡、取りたいんだけど」と真っ直ぐな視線を向けながら言われ、咄嗟に頷く。
「俺も変わってないから。また連絡する」
そう言い残して体育館へ走っていった彼を今度こそ見送った。
連絡先が変わってないのなんて、知ってるよ。何度も連絡を交わすのに使っていた無料のメッセージアプリから、彼のアイコンが変わることも消えることも無かったんだから。
連絡をくれるって事は、京治も同じなのかな?
私と同じで消さずにいてくれたのかな?
そうだとしたら、とても嬉しい。
頬に残る涙を乱暴に拭い、クリアになった視界で空を見上げる。
視界いっぱいに映った青空は、さっき見た時と何ら変わらないはずなのに、何だかとても綺麗に見えた。
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