■ 2


 夢の中で、あの人は私に笑いかけて、大きな手で私の頭をたくさん撫でてくれた。そして、野原に君と二人で行きたい、とあの人が言ったから、私たちは野原へ向かった。

 二人で長い旅をして辿りついたのは、周囲を森に囲まれた広大な草原だ。

 私達はじゃれあいながら広い野原で転げまわった。
 燦々と日の光は降り注ぎ、森では小鳥が鳴き交わす。

 寂しいことも悲しいこともないそこで、あの人は俯かないで顔をまっすぐに上げて私をみている。とても優しい笑顔だ。あまりの嬉しさにワンと吠えたら、眼が覚めた。

 いきなり草原が消えて、暗いリビングなってしまって、私はポカンと辺りを見回す。いつものリビングだ。

 がっかりして、ふといつもと違うことに気づいた。
 窓の方がやけに明るくて騒がしい。

 ハウスを出て、カーテンを鼻先で掻き分けて外を見る。
 まだ朝ではないのにやけに明るい外では、大きな火が燃えていた。
 そして人が不安げに声を掛け合っている。

 私はとっさに声を上げながら、主人と奥さんのいる寝室に駆け込んだ。吠え立てて二人を起こそうと思った。

 けれど、そこにいたのは、見知らぬ男だった。
 冷たい眼をして、冷たく光る包丁を持っている。
 包丁からは血の匂いがした。

「ノエル……っ」

 掠れた奥さんの声がした。
 奥さんはベッドの上でうつ伏せになって私を見ていた。
 主人は動かない。声も出さない。
 ベッドの前に立つ男は、私の方に近づく。
 男からは嫌な気配がして、私は唸りながら身構えた。
 不意に、玄関のチャイムがけたたましく何度も鳴った。
 そして激しくドアを叩く音。
 外からは、大きな動物の遠吠えのようなサイレンが聞こえてきた。

 男が、走り出した。

 私の横をすり抜けようとしたところを飛びついて、足に思い切り噛み付いた。男が手を振ると、鼻筋に鋭い痛みが走った。思わず口を離して飛び退る。

 男はそのままリビングの方へ行った。
 私は奥さんの方へ駆け寄る。
 声をかけても、奥さんは動かなかった。
 眼をあけたまま、じっと動かなかった。
 顔を舐めると血の味がした。

 ドアを叩く音が一層激しくなる。

 怒鳴る声も聞こえていたが、やがて音が止み、リビングの方から人が入ってくる気配がした。さっきの男かと思ったら、違った。隣の家の主人だった。

「津村さんっ!」

 主人はベッドの二人に駆け寄り、ひどく狼狽していた。
 そしてふと私を見やり、私の体を抱きかかえた。

「おいで、ここも燃えちまう」

 そして私は窓から外へ出された。

 外には人が大勢いた。辺りには焦げ臭い匂いと、怒鳴る声と不安な気配が充満していて、私はうろたえた。

 奥さんと主人が心配だったが、それ以上に、不安で仕方なかった。
 その時、多くの人のなかに、一瞬あの人の姿を見た。
 雑多な匂いの中にはっきりとあの人の匂いを感じた。

 私は身を捩って、隣の主人の腕から逃れ、匂いの方へ走った。
 後ろで私を呼ぶ声がしたが、振り向かなかった。
 そして、あの人を見つけた。

 人の群れの外れのほうで、火を見上げている。
 私は迷わずその足に飛びついた。
 あの人はひどく驚いて私を見た。

「……お前、どうしたんだ?」

 かがみ込み、私の顔を見て、首を傾げる。

「怪我、したのか……。この騒ぎで逃げてきたのか?」

 私がワンと鳴くと、周囲にいた人がちらりと振り返って、私と彼を見た。彼は、その視線に気づくと、そっと眼を伏せた。そして私の頭を少し撫でると、背を向けて歩き出した。

 私は彼の後を追った。
 少し歩いて彼は振り返り、私に気づいた。

「おい、ついて来るなよ。家に帰れ」

 彼はそう言って少し早足で歩き出す。
 私は一定の距離を保ってついて行った。

 時々、彼は振り返り、そのたびに早足になった。

 やがて人の騒ぎもほとんど届かなくなった頃、彼は足を止めた。

 振り返って、じっと私を見る。
 私もその場に止まって、彼を窺う。
 小さく尻尾を揺らし、鼻を鳴らす。

 敵意はない。
 ただ傍にいたい。

 そう伝えたかった。

 彼が、ふっと気配を緩めた。

「……帰れなくなっても、知らねえからな」

 そしてゆっくりと歩き出した。
 彼の声に拒絶の響きはなかった。

 私は彼の横に並んだ。
 彼の顔を見上げ、ぱたぱたと尻尾を振った。
 彼は、私をちらりと見て、少し笑った。

 それがひどく嬉しかった。






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