■ 1
あ、あの人だ。
いつもの散歩コース。公園のベンチにその姿を見つけ、私は嬉しくなって尻尾を振り回した。
だが、リードを引っ張って駆け寄るなどと、はしたない真似はできない。きちんと主人の歩調にあわせつつ、あの人を見つめる。あの人は私にまだ気づいていない。
主人がゆったりとした足取りで、春の匂いと暖かさが満ちている日暮れ間近の公園の木々を眺めながら、散歩を楽しんでいるのがじれったい。
ゆっくりとベンチに近づく私達の方にあの人が眼を向けることはない。ベンチに浅く腰掛けて、深く俯いている。まるで、そこに座っていることが申し訳ないとでも言うように、遠慮がちで寂しげな姿だ。
あとほんの数メートルのところまで来た時、主人がくいっとリードを引いた。そして、ベンチから遠ざかるように距離をとる。
もう少し傍に寄ればあの人も私に気づくのに、どうして。
私はつい、リードから伝わる主人の意思に逆らって足を踏ん張った。
「どうした、ノエル?」
主人が怪訝そうに私を見ながら、リードを引く。
私はその顔を見上げ、くぅんと小さく鳴いて、大人しく足を進めた。
未練がましくあの人を見ると、あの人が顔を上げていた。
じっと私の方を見る視線を感じる。
ああ、気づいてくれた。
私は、ぱたぱたと尻尾を振った。
あの人はすぐにまた深く俯いてしまったけど、私は満足だった。
* * *
「公園にさー、ホームレスの人がいたよ」
主人が玄関先で私の足を拭きながら、奥さんに言った。
主人と私を出迎えた奥さんは、
「へえ、この辺じゃ珍しいわね」
と言って、私の頭を撫でた。
「ああ。最近、時々見かけるんだよ。たぶんどっかから流れて来たんだろうな。五十後半ぐらいの人でさ。まだ身なりはそんなに酷くないけど、いっつも同じ作業着みたいなの着て、髭も髪もぼさぼさで、ちょっと可哀相だよなあ」
「関わっちゃだめよ、あなた。すぐお人よしなことばっかりするんだから」
「いや、ちょうどうちの親父くらいの年だし、気になってなあ」
「お節介したいならそのお義父さんにすれば? さ、ノエル。ご飯にしよ」
奥さんが私を促してリビングに行く。
主人が、それもそうか、と呟いて後をついてくる。
私は、ご飯と聞いて既に涎が出そうだ。
あの人ももうご飯の時間だろうか。
今日のご飯はドッグフードに柔らかいお肉が乗っていた。
噛み応えのある肉も好きだが、このお肉は少し塩気があるからすごくうまい。ぺろりと平らげて、リビングの隅にあるハウスに戻った。
前までは庭にある私だけの家に居たのだが、この近所でペットの小屋に放火するという悪戯が続いているらしくて、私の家はここに移った。独りで夜に外にいるのはちょっと寂しかったから、私は嬉しい。
お気に入りの玩具に囲まれてごろごろしながら、あの人はどこで寝てるのだろうと思った。
いつも独りでいるが、家に帰れば誰か一緒の人がいるのだろうか。
それなら寂しくないし、そうだといいなと思う反面、私もあの人と一緒がいいなと思う。
私があの人を初めて見かけたのはまだ雪が降っていた頃だ。
散歩の途中で、主人が公園のトイレに入った。
私はトイレの傍に繋がれて、大人しく待っていたら、あの人がやって来た。俯いてゆっくりと歩いてきて、私の傍らで足を止めた。髪と髭に覆われた顔の隙間から、どこかぼんやりした眼でじっと私を見つめた。
私は、彼の敵意がない様子に心を許してぱたぱたと尻尾を振ってみせた。彼はふと目を細めた。
「ゴールデンレトリバー……か。タクと一緒だな。色は違うが」
そして私の方に手を伸ばす。
撫でてくれるのかと思ったら、その手は途中で止まった。
「……きれいだよなあ、お前。……俺は、汚ぇなあ」
そして、その指先の黒ずんだ手をじっと見てポケットにしまった。
「黒だったらな、ちっとぐらい泥ついてもわからねぇけど、お前こんなにぴかぴかにしてもらってんだもんなあ……」
そしてひどく哀しげな眼をして、とぼとぼと遠ざかって行った。
私は、その背を見送りながら、思わず一声吼えた。
いつもならそんなことはしないのだが、その時はあの人が行ってしまうのがひどく寂しくなったのだ。あの人は一瞬だけ私を振り返り、それっきり背を向けて行ってしまった。
それ以来、あの人を見かけると傍に行きたくなる。
気になっているのだ。
すごく。
あの人を見るたびに、私に触れなかったあの黒い指先を思い出す。
あの人からは、優しい人の匂いがした。
触っても良かったのに。
撫でて良かったのに。
私が人と同じように口が利けたら、そう言えたのに。
あの人を見かけると、すごく嬉しいのに、こうしてひとりであの人を思い出すと少し哀しくてとても寂しい。
その晩、私は夢をみた。
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