オサナザクラ



桜はどうも苦手だ。
「嫌い」なわけではないはずだ。庭にそびえるあの一本桜が、花を付けなければ、やはり私は寂しいと思うのだろうから。
しかし、寂しいとは思うものの、それが愛でる対象にならないのも確かなことで。
年甲斐もなく、桜を見るとざわついてしまう。
忘れたと思っていた青臭い感情を思い出してしまう。
縁側から臨める隣家の桜木を眺めながら、私はふとため息をついた。あのちらちら、切なく振りゆく桃を見るとどうにも思い出してしまうのだ。
桜は嫌いだ、と嘯いていた少女の事を。

「さく」とは幼馴染の名だ。
勝ち気な瞳とへの字に曲げた口が印象的な、不遜な少女。おかっぱの黒髪が艶やかな私の友人。比較的、大人しい性分であった私は、よく彼女に「男のくせに」となじられたものだった。私はなじられつつ、それでもさくと私はよく連れだって遊んだ。さくは気性は荒い方で、私は逆に引っ込み思案だったが、それでもよく二人でいた。両親すらも手を焼く跳ねっ帰りには、かえって私のような引っ込み思案の方が合いやすかったのだろう。私と彼女はよく村の中央にそびえる桜大樹の下で遊んだものだ。
さくは女子にしては珍しく体を動かすのが好きで、特に鬼ごっこを好んだ。どちらかが鬼となって、片方を追い掛けるその単純なその遊びを私たちは飽きずに毎日やったものだ。しかし、私はさくと違って、運動はからきしであったから、さくが鬼になると、私はすぐに捕まってしまっていた。いつしか、私が専ら鬼としてさくを追い掛けるようになったのも必定と言えよう。
薄朱の花びらがひらひら散ってゆく中で、目の冴える黒髪を従えたさくと戯れる。今でも、その光景の艶やかさは目に焼き付いている。
駆けるたびにさくの黒髪が桜の花びらと絡みあい、解れる。時折、さくが後ろを走る私をからかうように振り返っては、笑む。さくのいたずらっぽい笑顔を見るたびに、私はまるで桜が散ってゆくようなどうしようもない切なさと愛しさを感じたものだった。
その日も私たちは随分と長い間桜の木の根元を駆け回っていた。高かった日はやがて落ち、いつしか桜を照らす日が橙を帯び始め、遊び疲れた私たちは桜の根本に腰を下ろした。上空からは、桜の花びらがひらひら舞っており、私はその美しさにほうとため息をついた。
「綺麗だね」
私は知れず呟いていた。さくのつやつやしたおかっぱに薄桃が滑ってゆく。さらり、と風が吹けば、花びらとともに髪も揺れた。きれいだ、と思った。なんのてらえもなく綺麗だと思った。しかし、さくの反応は私のそれとは異なるものであった。彼女は眉をしかめて、苦々しく言い放った。
「わたしね、桜は嫌いなの」
気に入らなそうに眉をしかめ、彼女は髪に着いた花びらを払った。はらはらと無残に花弁が落ちる。さくは地面に積もったそれを一瞥すると、いたずらにもてあそんだ。少女の日焼けした指が、白い花びらと踊るように絡み合う。そんな様子に少し鼓動を早めながら、私はそれでも辛うじて問うた。
「どうして。こんなに綺麗なのに」
「だって、桜はわたしから父様をとるのだもの。わたしだって父様と遊びたいのに。ずるいわ」
さくは拗ねたように唇を尖らせて、桜を見上げた。
さくの父親は腕のいい庭師だった。村にそびえるこの一本桜もさくの父が世話していた。この桜は以前、ひどい病気になったとかで、ここ数年のさくの父の桜への入れ込みようは並々ではなかった。さくはそれが気に食わないらしい。桜よりさくでしょ、と呟く彼女に私は少し躊躇ってから、ただ「そっか」と小さく頷いた。彼女は力なく微笑んだ。
「ね、遊ぼ。このまま、ここにいるのも勿体ないもの」
暫くぼうっと座っていたのだが、唐突にさくが私の手を掴んだ。さくの幼い体温が私の身体に伝わってくる。瞬間、ぴしんと身体が硬直した。普段からよく遊んでいたけれど、手を繋いだりすることはなかった。さくは私を置いてどんどん行ってしまうような子だったし、私はさくの手を繋ぐなんてとんでもないと考えていた。そんなさくが、私の小さな手を今、確かに握っていたのだ。
確かに早まった鼓動の理由を、当時の私は本当に幼くて不明瞭だったのだが、今考えるとそれはきっと「恋情」と名付けられるべきものであったろう。
しかし、今になってそんな事に気付いたって詮ない事だ。
私は、すらりと手を伸ばした。そうして、隣家より塀を越えて流れてくる花びらを一つ掴み、なんとなしにそれをもてあそぶ。
……あれ以来、さくは、そしてあの桜大樹はどうなったのだろう。
父が早死にしてしまって、母の実家へ移り住んでから、私はその桜の状態を、さくの所在をとんと知らない。

故郷を去ることになった。
流行り病で父を亡くして間もなく、生活が立ち行かなくなった我が家は、とうとう村を去り、母の実家のある隣村へ移ることになった。私は不思議と寂しいとは思わなかった。父のいない故郷はなにかが欠けていて、どこか物足りなかった。
結局、私の故郷とは、母が居て、父が居て、そして兄弟のいる場所であったのだろう。故に父のいないその村は、幼き私にとって色あせてしまったように感じられたのだろう。ただ、さくにもう会えなくなるやもしれないことばかりが、未練で無念だった。
故郷を去る一日前、私はさくに偶然出会った。避けていたわけではないのだが、この村を離れることが決まってから、私がさくと遊ぶことは無くなっていた。そうして、このまま会うことなくこの村を去ることになるのだろうと、なんとなく思っていた。
母の遣いで乾物を買いに行った帰りの事だ。私の行かんとする方角のほうから、さくが父と並んで歩いてきたのだ。
私はそれを見て、胸にちくんと針が刺さるのを感じた。
恐らくさくに会えたからではない。
だからといってさくの父を、父という存在を見たからでもない。
それは当時の私が体験した、最も複雑極まる感情であった。
恋情に似て、嫉妬にも似て、そして寂寥を孕んでいるのに、そのどれとも言い難いモノ、感情。
私は咄嗟に視線を伏せ、父子からわざとらしく視線を逸らした。さくはすぐに私に気付き、久しぶりと駆け寄ってきた。後ろには柔和に笑う彼女の父も見えた。
「ひさしぶりね。なにしていたの。お使いかしら」
さくは私の父の事を知っていて、なお普段通りの対応をする事に決めていたようだった。日常的な言葉がするすると彼女の口から滑りでる。私はなんだかむしょうにいたたまれなくなって、無言でうなずいた。早々にその場を立ち去りたかった。
「あっ、待って! わたし、貴方に渡したいものがあるの」
そういって、さくは手に提げていた巾着袋から木彫りの置物を取り出した。不格好な形ではあったが、確か、うさぎの置物であったように思う。
「引っ越すって聞いたわ。だから、お餞別よ。お父さんと作ったの」
かわいいでしょう。屈託なく笑った彼女を見て、私は、私の混沌とした感情の、その激情をはっきりと自覚した。
頭に血が上ったのだ。
気付けば差し出されたうさぎをたたき落としていた。ぼすん、と鈍い音がして木彫りの置物が地面に転がった。
「え……」
さくの口かららしくない音が漏れた。その覇気のない声ともつかない音に私はようやく我に返った。呆然としているさくに、どうしようもない後悔がこみ上げてくる。謝ろうと思った。謝らなければ、とも思った。
しかし、私は何一つ言葉にすることはできず、ただ、さくの哀しげな視線を振り切るように、その場から逃げ出した。
背中越しにさくの父の、私を呼んでいるのだか、歎いているんだかの声が不明瞭に聞こえた。私は、振り返れなかった。
あの時、私はさくに裏切られたと感じたのだ。さくの父を恨む気持ちは、結局、少女らしい甘さに満ちた言葉だったのか。と。今となってはそれは当然のことで、当時の私から見てもさくがただ拗ねているだけということは自明であった。それでも、がっかりせずにはいられなかった。父の死んだ不安感を、その心もとなさを、ほんの少しでも共有している筈だと思える誰かを、私は必死で必要としていたのだから。
そうして、だからこそ、さくに失望したのだろう。私にとってのさくは身近な異性であり、恋慕の対象であり、そして父を必要とできなくなってしまった私が目標とすべき少女であるとさえ感じていたのだから。

さくはあのうさぎをあの後、どうしたろうか。
はねっ帰りのじゃじゃ馬らしく、私への怒りそのままに壊してしまっただろうか。
それとも、私の仕打ちに涙し、記憶の奥底へ仕舞われているのだろうか。
しかし、ああ。
大切にとまではゆかなくとも、どこかに置いてあるのかもしれない。と。
そう思ってしまう。そう、願わずにはいられない。
私は弄んでいた桜の花びらを高い位置から離した。ひらひらと舞い落ちるそれは、やがて急に吹いた春風に飛ばされてしまい、その行方は私の知るところではなかった。

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あとがき
思い出すには気恥ずかしいし後悔が伴うのですけれど、それでも覚えておきたいこと、覚えていたいと思える記憶というのはあると思います。還暦を迎え、喜寿を迎え、そうなった時に、そんな記憶を一つ一つ、しわを伸ばして懐かしがるようになるのかもしれません。そんなお話です。「懐かしい」という言葉は十代、二十代にはもったいないとても贅沢な感情であるように思います。不思議な感情ですよね、「懐かしい」。時制の概念が無ければ成立しえない感情で、しかもある一定の時間を挟まなければいけないのに、その一定時間は主観でしかない、という。時間の客観と主観の間をゆらゆらしているような、そんな感じがします。ううん。なんか、わかりにくいですね。私もよくわかりません……(笑

プロトタイプより随分と加筆しました。推敲をするのは楽しいです。



  
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