手元にある言葉



残念なことに私は恋人から「好きだ」って言われたことがありません。
もとより、寡黙な人でした。不要なことは語らず、必要なことも最低限に。少しの身振りとうっすらとした微笑みとですべてのコミュニケーションを過不足なく終わらせてしまえる、そんな人でした。
二か月前、告白をしたのだって、敢えて言うまでもなく、私です。
「好きです、付き合ってください」と、日暮れなんとする教室で、帰途に就こうとする彼の手を引いて言ったのです。
その日は十一月も終わろうとする冬の日だったはずなのに、私だけまるで夏の日差しの下にいるように熱い日でした。引き留められて、声を掛けられて、驚いたように彼がこちらを振り返った瞬間、身体中の汗腺から嫌な汗がぶわりと吹き出すのを感じました。
彼の視線一つで身体の新陳代謝も思うがまま、はは、サプリメント要らずですね、経済的です。思わず、にやけそうになった唇をむりやり引き結びます。そんなオモシロイこと、考えている場合ではないのです。今は目の前の彼のことを、そして自分の胸中を目いっぱい吐き出すことを考えねばならないのです。だというのに、思考は彼からなんとしても逃避したがって、とりとめもない雑念をぽんぽん生み出すのです。けれど、そのくせ、彼の一挙手一投足にびっくりするくらい過敏で。校則にぎりぎり反しない短さの前髪が彼の動きに合わせてなびきます。その一つ一つの流線形の動きを正確に捉えてしまうのです、本当に厭らしいったら、手におえません。
彼は振り返って、真っ直ぐこちらを見すえてくるものですから、当然目があいます。びくりと身体を震わせて怯んだのは彼の方で、瞬時に逸らされた視線に傷ついたのは私の方。
彼の視線は行き場を失っているようであっちへふらふらこっちへふらふらして、ついぞ私に合うことはありません。
「あっ、と、ごめんなさい。急にこんなことを言ってしまって……」
あからさまに困り果てている彼を見ていたら、途端、悲しくって堪らなくなり、私っは思わず謝りました。そもそも、私と彼はそれほど仲がいいというわけではないのです。ただ、中学校の頃から同じ学校に通ってきて、高校も偶然おんなじで、クラスが一緒で、席が隣。たまに思い出したように会話はするけれど、それだってその日の夜には忘れてしまうような他愛のないものばかり。遠くもなくって近くもない、友人と言い切ってしまうには、私も彼も図々しさが足りなくって、私と彼の共通意識は形容しがたい宙ぶらりんな「他人」といったところでしょう。ただ、私だけがそっと片想いをしていて、私だけが彼を特別だと思っていたのです。そして、それは今この時まで秘密だったのですから。そんな、「他人」に告白されたのでは彼だって困ってしまうに違いないのです。それは当の私でもわかるくらいの事実なのです。
けれど、そのくせ、掴んだ手首は離せそうにないから、困ったものです。振りほどいてくれないかな、とか都合のいいことを図々しくも思うのです。全くもって本当にどうかしちゃってる考えなのですが、その時は本気でそんなことを考えていたのです。
けれど、彼がくれたのはぐらつく私をとうとう突き落とす一言でありませんでした。
彼はふらつかせていた視線のやり場を遂に床に決めたようでした。折角なら、これが最後になるのなら、私の目を見てくれたっていいのにと思ったのは内緒です。彼も私も内向的な方であるのは繋がっているようで繋がっていないこの数年でわかりすぎるくらいにわかったことであるのですから。
手首をつかむ私の手を、振り払うのではなく、そっと取って。俯けた彼の表情をすべて伺うことはできませんでしたが、ほんのりと夕焼けと似ているようで、悲しいかな、胸が焦がれてしまいます。諦めさせて、なんて思ったその思考が消えぬうちになにを都合よく、などと理性が言いますが、私は脳内でさっくりそれを殺してしまいました。
都合よくできているのです。私って生き物なんて。
とかなんとか、ぐちゃぐちゃ考えている間に、彼は意を決しらしく、私の手をそっと握り直しました。
「……僕で良ければ」
視線さえこっちを向けてくれれば、百点満点あげたっていいんですけどね。
なんて、余裕ぶったことを考える理性はなく、私はこみ上げる思いのままに、涙なんかを垂らしてしまったのでした。


→続



  
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