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……と、これがつい二か月前のことです。
それから、一緒にお出かけしたり、手をつないだり、なんだりと色々あれこれ甘酸っぱくやわっこい生活を送ってきたわけです。語りだすと果てがない、そのくせ他人に話すにはあまりにねばっこくてありふれたエピソードたちです。きっと思い出として胸に秘めて、どんどん美しくなってゆくに違いない話たちです。
私と彼と。
楽しいことに塗れながら、知らないことに溺れながらの日々は控えめにいってもかけがえのないものでしょう。それは確かです。けれど、ちっぽけな不満もないと言えばそれは少し言い過ぎなのです。
そう、ここで冒頭に戻るわけです。
性格的に口数も多くない彼に、言葉を求めるのはナンセンスだと、頭では理解しているのです。けれど、心の中心に、彼の言葉で埋めるための穴があるのも確かなのです。彼の、たった一つの言葉のために用意された穴が。
……なんて、どこまで厚かましくなれば気が済むんでしょうね、はは。言葉なんていらないと、彼が隣にいてくれればいいと、そう言えるくらいカッコよければよかったのにと、私だってそう思います。そうあれば、こんなぐじゅぐじゅ倦んだ気持ちを抱かずにすんだのかもしれません。
ともあれ、帰り道です。
隣には勿論、寡黙で小憎い彼がいます。ホームルームから少しだけ図書館で時間をつぶして帰路に就くのが常でした。別に隠すほどのことでも隠さなければいけない事情もなかったのですが、ちょっとしたはにかみと慎ましさから私たちは帰宅の時間をずらしていたのです。直帰する者よりは遅く、部活をする者よりは早い、そんな時間帯に帰っていたのです。当然、道行く同校の生徒は疎らなものでした。
さて、そんな人の少ない道を今日も今日とて言葉少なに歩を進めるのですが、その日の私はいつもと少し違います。とうとう覚悟を決めていたのです。早まる動機を必死で押さえつけながら、一言。
「××くんは、私のこと、どう思っていますか」
簡潔に答えよ。
彼は吹き飛んだ会話の文脈にぱちぱちと瞬きを数回してみせました。眉間をひそめて首を傾げた彼は訝しげに私を見つめます。
暇を見つけては一緒にいて、暇がなくても一緒にいようとして、わざわざそんな面倒くさいことは家族にだってやりはしないのに。それ以上になにを求める。
つかず離れず会話を交わしてきて早数年。こっそり慕ってきて早数年。彼の心中を読むことにずいぶん慣れていた私には、彼の思考が透けて見えるようでした。正答率は六、七割といったところでしょうか。齟齬を生むほどずれがあるというわけではないでしょう、恐らく。
彼が言いたいことは、私だって十分理解してはいるのです。大人しく慎ましい彼が、積極的に関わっている私をどれだけ特別扱いしているか、なんて。
「分かり切っている一言でも、言葉がほしいと思うのは」
我儘ですか。
彼は寡黙な人で、このままいけば人生で発せられる言葉はきっと人より少なくて、増して貴重だったりするでしょう。だから、その貴重な一つを私にくれませんか。私のために、一つ、作ってみたりしませんか。
私の本音は口に出してみれば実にチープで恋に眩んで恥ずかしく、言い終わる頃にはすっかり頬は火照りきっていました。顔は熱く、無性にいたたまれなくなってきてたまりません。私はどうしても彼を見れませんで、地面をじっと見つめていました。彼の泥ハネの目立つスニーカーが僅かに動きます。こちらに、――来る。
思わず、顔を上げれば、想像以上に彼の顔が近くにありました。じっと私を見下ろしている彼の、その口が少しわなないた後、空気を震わします。
「そんなことをずっと思っていたのか」
声変わりも済んだ、低い、けれど優しい声。私の好きな人の、私が好きな、――声。
あなたのために空けた穴があります。
あなたの言葉がほしくて虚しい心があります。
とろとろに蕩けきった私の独白の最中、彼はどうしようもなく挙動不審でした。そわそわそわそわ、落ち着かず、私の話、ちゃんと聞いていたんでしょうね。
思わず、聞き返しかけた瞬間、彼は。
「…………」
浮遊した微笑みを浮かべたのでした。
普段から、寡黙な割によく微笑む彼ですが、それはここ最近よく見るようになった種類の笑い方でした。眉尻が下がって口元が緩んで、だらしなくってやわっこい。馬鹿みたいに幸せそうで馬鹿みたいに甘ったるいそれを見て、私はようやく気づいたのです。
彼は微笑みと少しの身振りでコミュニケーションを完結させてしまえるような人で、それでなんとかなってきた人で、この二つが彼の「言葉」を肩代わりしていて。……彼の言葉そのもので。
そして、この笑い方をする彼を、少なくとも教室とか学校とか二人っきりじゃないところでは見たことがありません。レア笑顔ってやつなのです。
だから、つまり。
ぶわりと上がった体温に、どうしようもなく自分が単純なことを思い知らされます。彼から言葉を得ることに、あんなに執着していたではないですか、それ以外では満たされないと言ったばかりでないですか。
ともあれ、一度加速した脳内回路は焼ききれんばかりに加速するばっかりで、生じた熱は血液に乗って身体を巡って広がってゆくのです。
「……これだから君って人は!」
負け台詞よろしく吐いた私の言葉を、彼はきっと理解できなかったことでしょう。きょとんと首を傾げたりするものですから、どうしようもありません。
ええ、私の負けなのです。彼の言葉を読み解いてしまった私が、どうしたって敗者で盲信者でしかないのです。
たたたっ、と先行く私に駆け寄り、隣についた彼は、ちらりと私を横目見て、またにっこりと笑うのです。……明確に言葉を、述べるのです。

……なんてことを言う人!



  
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