祝福されし歌声



彼女、霧島瑠花はまるで歌うために創りだされた少女だった。
凛と澄み渡ったソプラノが美しいメロディを辿っていく様子はまるで、名手に奏でられる楽器のそれとよく似ていた。身体を楽器に変えて、歌を奏でるその姿はまるでわたしと同い年とは思えぬほど、気高かった。
人々がその歌声に陶酔したのは、神様のための声だと愛であったのも無理からぬこと。
それほどに彼女の歌声は美しく、神々しく、宝石に似た輝きに満ちていた。
瑠花が歌い終わった瞬間というのは得も言われぬ緊張感に満ちている。
天まで届けと紡がれるその声は人を容易に呑んでしまうのだ。
「わたし、瑠花の歌う姿が一番好き」
感嘆とともに私はそう呟いた。
「ありがとう。そういってくれると歌い甲斐があるわ。日曜日、ミサで歌うことになっているの。聞きに来てくれる?」
瑠花はその年の少女らしい顔ではにかんだ。
「もちろん行くよ。楽しみにしてるね」
わたしが言えば、瑠花は嬉しそうに笑った。

瑠花は好んで讃美歌を歌った。
彼女の父が神父であることのもあっただろうが、きっと彼女自身も讃美歌独特の言葉回しを気に入っていたのだろうと思う。
彼女はいつも私たちの町の端っこにある教会の、礼拝室を借りて、歌を奏でていた。日曜日ならまだしも、平日の片田舎の教会ともなると教会の主たる神父以外はめったに人影はない。わたしは学校からの帰りにしょっちゅう教会に足を運んでは、彼女の歌声を独り占めにできる贅沢に浸りきっていた。
教会の荘厳な雰囲気もあいまって、しんとした礼拝室に響く彼女の歌声は、ますます神さびて聞こえた。
「瑠花の声なら、きっと世界の果てにだって響き渡らせられるんだろうなあ」
ビィ玉みたいに澄んだ声。
ガラスのように凛々しい声。
わたしは世界中が彼女の声に包まれるのを想像して、くすくすと笑みを漏らした。そんな心弾む世界はきっと素敵だろう。
けれど、わたしの言葉に、彼女はわずかに表情を暗くした。「そうかしら」と、一言。
「わたしの声にそんな力はないわよ。……本当に届けたい人へも届けることはできないのだもの」
あからさまに不機嫌に暗くなった彼女の声に、わたしは図らずも動揺した。
そんなに彼女の癇に障るようなことをいっただろうか。もしかしたら、怒らせてしまったのだろうか。
うろたえるわたしに彼女はわずかに眉尻を下げた。
「ごめんね、こんなこと言われても困るわよね。忘れて」
ぽん、とわたしの頭を撫でた彼女は、わたしが何かを言い始めるよりも早く、「今日は早く帰った方が良いわ。日が落ちるのも早くなっているのだし」と告げた。さりげなく教会から追い出される格好となったわたしは、結局彼女に言葉の真意をただすことはできず、もやもやとした気持ちを抱えたまま、帰路に就いた。

彼女は何事かに悩んでいるのは明らかだった。
だけれど、彼女がそれを詮索されたがっていないのも同じくらい明白だった。彼女がこぼした言葉は、おもわず漏れてしまった言葉で、いまやそんなものが漏れ出るスキすらなくなっているに違いない。
先日の彼女の暗い顔を思い出して、わたしはその日、初めて礼拝室への扉を開くことをためらった。この扉の奥には必ず彼女がいる。なにかに悩みながら、それを悟られまいとしている彼女が、いる。悩みながら、けれどわたしの、他人の助けを求めない彼女がいるのだ。
「……やっぱり今日はやめようかな」
わたしは、深く溜息をついて踵を返そうと、した。
「……っ!」
「わっ!」
俯き加減に振り返って一歩と進まないうちに、誰かとぶつかったわたしは思わず後ろへよろめいた。
「わわっ、すみません! 前を見てなくって!」
体勢を立て直すよりも早く、ぶつかった相手に頭を下げる。しかし、返答はない。不思議に思って、顔を上げれば、相手も申し訳なさそうに苦笑いを浮かべていた。
背の高い、優しげな男性だった。わたしよりもわずかに年上……大学生くらいだろうか。品のよいコートをまとった彼は柔らかい笑みを浮かべていた。
「あの……」
わたしは彼からの返答が得られず、明らかにうろたえていた。おずおずと彼を見上げれば、彼ははっとして、羽織っていたコートの内側から小さなメモ帳とペンを持ち出した。わたしが彼の行動の意味が分かりかねてきょとんとしている間に、さらさらと紙にペンを走らせていく。言葉を書きつけた後、彼は、わたしにそのメモを見せニコリと笑った。
『こちらこそ、失礼しました。ぼんやりしていたのです。
ところで、ここに歌の上手な女の子がいると聞いたのですが』
そして、とんとんと自分の耳を指さす。そこでようやく私は彼は耳が聞こえないんだ、とということを悟った。思わず彼を仰ぎ見れば、彼はわたしの考えを察しているようでこくりと頷きました。わたしはなぜだか焦ってしまい、慌てて彼から視線を逸らせた。見せられたメモに目を通す。紙に書いてあるのが、例の彼女であることはすぐに知れた。しかし、それをどうやって告げればよいのか分からず、わたしがおずおずと彼を見る。わたしの視線が尋ねていたのであろう。彼は再びメモに書きつけ、そしてわたしに見せた。
『はっきりとしゃべって頂ければ読唇ができます』
「あ、えっと、瑠花……、霧島さんは確かにここにいます。霧島さんのお友達の方ですか」
わたしはできるだけ口をはっきり開けることを意識しつつ、彼に尋ねた。初対面では失礼になりそうなその質問に、けれど彼は気を害した風でもなく、
『恋人、です』
と、短く答えた。

→続


  
[14/41]
leftnew | oldright