女といふもの



女というものは呪をかける。笑み、憂い、言葉を用いることで、男に解き難い呪をかける。

化粧台を前にしてぱたぱたと手を動かしていた妻だが、ふと何を思ったのか紅を引くその手を止めた。紅をひくためにほんの少し開けられた口から、白い歯がのぞく。解れた後れ毛が白い項に掛かっている。鏡の中の自分を見ていたのであろうが、私には妻が物思いに沈んでいるようにしか見えなかった。何をやっているのだ。私なぞはとうに支度など済ませてこうして待ち惚けをくっていると言うのに。苛立たしくて、思わず溜息が出た。
「おい、早苗。そう時間を掛けていては、芝居が始まってしまう。早く用意をしてしまいなさい」
ぼうっと鏡を眺める妻を呼ぶ。すると彼女は慌てたように自我を取り戻した。
「あら、いやだ。ごめんなさい。もう少しで支度してしまいますから」
彼女はしかし、ゆるりと口紅を引き、頬を朱く染め、次いで髪の具合を鏡で丁寧に確認する。そこに時間を気にかけているような性急さはない。あくまでも緩やかなものだった。第一、化粧を施す、ただそれだけの作業なのだから、直ぐに終わりそうなものだが、何故か妻はこの作業にたっぷりと時間を掛ける。頬紅を選ぶのに一度手が止まる。なんどもなんども髪の調子を整える。
これだから、女というものは善くない。時折、無意味に物思いに沈んで、手元が疎かになってしまう。しかも、手際が善くないときているから全く、仕様のない。私は思わず溜息を洩らした。
「あら、貴方。今日はずいぶん冷えると聞きますわ。外套をお召しになったらいかが?」
「……支度は、終わったのか」
「ええ。お待たせしてごめんなさい。ちょっと、待ってってくださる? 外套を持ってきますわ」
私がぶつぶつと文句を言っている間に妻は支度を済ませてしまったらしい。気付けば私の直ぐ目の前に居て、にっこりと微笑んでいた。
心なしか、目が潤んで見える。
化粧のせいか。それとも、女のもつという呪の、せいか。
「全く。あなたという人は。私が居ないと外套すらも羽織れないのだから」
「何を言うか。君がやりたがってしているのだろう。私だって一人でこのくらい出来る」
「あら、いやだ。存じませんで」
くすくすと早苗が笑いながら、私に外套を羽織らせた。一言多い。と、私は心中で毒づくが口に出すのは辞めた。妻が手入れをしてくれていたのか、外套は黒く艶やかであった。タイを器用に蝶々結びにしながら、妻はさらに続ける。
「でも、意外でしたわ。あなたがお芝居に連れて行って下さるなんて。とても嬉しゅう御座いました」
きゅ、とタイを横に引っ張って、早苗は「できた」と満足げに笑った。
ああ。これだから、女は……早苗は好かんのだ。言葉を使って私に呪を掛ける。否応なく、胸中がざわつかされた。
「……そうか。それはよかった」
咄嗟に私は口元に手を当て顔半分を隠していた。それでも、平静を取り繕って応える。否、既に取り乱していることが見て取れる。その混乱を確認したのか、早苗もどこか意地悪く笑って、
「照れていらっしゃる?」
と、尋ねてきた。まるで悪戯小僧のような口調である。
「まさか。これは君の呪で……」
混乱している私はつい、口を滑らせた。「しゅ? しゅとはなんです?」と、意味を解せなかったのか早苗は首を捻る。
「い、いや。忘れてくれ。大したことじゃあない。……それより、早く劇場へ行こう。遅れてしまっては元も子もない」
「なんですか、怪しいお人」
なおも追求しようとする早苗を私は玄関へ向かうことで振り切る。
「あら、せっかちなのだから。お待ちになって」
ぱたぱたと後ろから早苗が私を追う軽い足音が聞こえてきた。小さな巾着袋を提げて、いそいそと芝居を待ちわびる妻は、その存在だけで私を惑わすようだ。私はさらに、気に食わない顔になった。
「あなた、なんです。その怖い顔。今からお芝居に行く人とは思えませんわ。ほら、笑って」
「意味もなく笑えるわけなかろう。それより、忘れ物はないかい」
玄関で眉根を寄せている私を見て、妻は何が面白いのかころころと笑った。
「はいはい、御座いませんわよ。少しくらいゆっくりしたって罰なんか当たりませんのにねェ」
余裕のない人。と、笑われる。私には妻がのんびりし過ぎているようにしか思えない。
履物を履いた妻は玄関先に不機嫌に佇む私をみて、再び笑んだ。
「さ、参りましょ」
そっと、彼女は私の腕を取った。白粉がふわりと薫った。女の薫りだ。
「少し、離れて歩きなさい」
私の搾り出すような言葉に、妻は不意を付かれたように目を見開き、
「あら、聞こえませんでしたわ」
と、素知らぬ振りをした。

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ばつぶん
想定年代は明治です。
お化粧をする女の人はなんだかいいよなあと思って書き始めたので、特に内容はありません。お出かけ前の夫婦の話です。思った以上に仲の良い夫婦です。旦那さんが男尊女卑気味なのはご愛嬌ということでなにとぞ。
旦那さんは自分の方がしっかりしていると思っているし、奥さんも自分の方がちゃんとしていると思ってて、でもはたからみたら、どっちもそんなにしっかりしてないよ、って感じが出てればいいなあと思います。なんかそんな感じの二人です



  
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