二人─3
彼女と会わなくなって随分たつ。風の音が気持ちをざわつかせ、山へ行こうと思っても心がそれを制した。
──あんなことを、言うつもりはなかったんだけど。
今思い出しても自分に腹が立つ。思わず俯いて片手で顔を覆っても、腹立たしい気持ちも焦燥感も一向に収まる気配はない。
わかっている。
あれは子供じみた嫉妬でしかない。自分に無いものを求めた結果、その眩しさに目がくらんで口をついて出た悪態だ。
そう、彼女は美しい。
体から溢れんばかりの生気に草木も喜びの声をあげ、言葉を紡げば風が優しくなる。黒い髪、細い体、触れてみたいと思うことさえ自分の罪になるような気がした。あの輝きを前にして、自身の内で巣食う闇に気付いてしまった。
消えてしまいたい。
彼が求めているのは、彼が知る言葉を借りれば「死」という名を冠するものであろう。だがそれ以上のことを彼が求めていることを、家族を始め彼自身ですら気付かなかったのだ。
気付かないから日々山をさ迷い、影を見つめ、笹の声に耳を傾ける。まるでそこに内なる声が潜んでいるかのように。
形を得なかった闇に形を与え、意味を与えたのは彼女だった。
彼女に言い当てられた瞬間に自分の中で何かが産声をあげたのを聞いた。そうして何を成すべきなのかもわかってしまった。
──そして、それを嫌だと思ってしまった。
手に持った小刀に視線を落とす。生活する上で随分使い込まれた刀の柄は手に馴染み、体温が伝わってほのかに暖かい。暗い調子の木目が彼を見上げ、その心持を試すようである。
彼女の目に映ったのは真実、彼の暗闇であろう。そして彼の暗闇を覗き込んでしまった彼女にもまた、己も気付かなかった闇があることを彼は知った。
それが何に由来するものなのか自分にはわからない。けれども、彼女には自分の闇を知られてしまった。それが悔しく、惨めだったのだ。
それなのに、彼女に会いたいと思ってしまう。
生を厭い、存在を厭い──けれどそれらを絶つ勇気すらないのに、再び彼女に会って言葉を交わし、触れてみたいとすら思う。
自分はどうしたいのだろう。
彼女に会いたい。心から会いたいと願う。
だが、一方でそれを拒む心がある。
会ってどうするという?
また自分の愚かさに気付き、惨めな思いで醜態を晒し、彼女を傷つけるだけではないのだろうか。
それが、一等に怖い。
──会いたい。
耳奥に笹の揺れる音が波のようにやってきた。恐る恐る、寄せては返し、彼を誘う。そこに黒髪が翻るが、彼女の顔は見えない。
どうしたら、いい。
小刀を強く握り締めた時、部屋の襖が静かに開かれた。
「……駆朗様。旦那様がお呼びです」
頭を下げた女中を、彼はぼんやりと見やった。
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