二人─4
彼女は髪を風に任せていた。いつもより強い風は彼女を労わることなく、髪を遊んで通り過ぎていく。艶やかな黒髪が陽の光を受けてきらめいた。
彼と会ってから随分月日が経っているような気がしていたが、それも自分の気のせいだと思い知る。まだ陽は長い。それほどに彼のことを自分は身近に感じていたのだと思うと、滑稽すぎて涙が出た。
彼は自分とは違う。
そんなことは重々承知していたはずなのに、そんな知識すら超えて自分はまだ彼に会いたいと願う。
──変だ。
そんなのは、変だ。おかしい。
彼が属するのは彼女達を「狩る側」であり、一方で彼女達は「狩られる側」に属する。相容れてはならない。心を許した瞬間に刃が取って返されるのだ。
彼が属するものはそういうものだと幼い頃から教えられてもいたし、実際に狩られた仲間を何人も知っている。ただ静かに生きていたいだけなのに、その領域を侵そうとする人間には自分達が邪魔なのだ。
もっと豊かな土地を、もっと豊かな生活を、その為の新しい場所を。
開墾の為に足を踏み入れる先に彼女達は暮らす。だが、自らが異能であることを彼女達は知り、だからこそ人とは閉ざされた領域に肩を寄せて暮らしていたのだ。
人は異能を嫌い、弾圧する。古代から脈々と継がれていく本能的な忌避にすぎないものを、彼女らに咎める権利はない。
だから、ずっと暗い山奥にいたのに。
朝靄にけぶる太陽、夜露を溜め込んで頭を垂れる稲穂、その間を駆け巡る清涼な風、中天にさしかかった陽を仰ぐ人々、山の端に茜色の帯をたなびかせる夕陽、夕餉を告げる声、疲れたように笑いながら帰る人の顔、その足元から伸びる長い影、各々の屋根から立ち上る煙が広い夜空を白く化粧し、その煙が途絶えた頃に村は眠りにつく。
そう、彼女は広い土地を──そこで暮らす人間が愛おしかった。
ただ見ていたかった。それだけで幸せだった。そこに自分が組み込まれるなんて想像出来なかった。
──それが、私の闇。
彼に指摘されたことは間違っていないとようやくにして気付き、彼女は顔を覆った。
そうだ、私は彼が羨ましい。そして村や同胞を厭う彼がこの上なく嫌いだ。自分に無いものを持っているのに、それを放棄してまでも「完全な死」を願う彼が憎らしく、同じくらいに愛しかった。
そんな彼が「狩る側」の者であるということが、苦しい。
云われなく死んでいった仲間の顔が思い出される。皆、苦悶の表情で己の死に疑問を抱きながら死んでいき、今も山をさ迷っている。自分に出来るのはそんな仲間を慰めることのみで、ましてや「狩った」であろう彼に羨望も何も抱いてはいけないのだ。
彼の目に暗闇を見つけた時、足元がぐらつくのと同時に奇妙な安堵を覚えた。これで、彼を心置きなく憎むことが出来ると思ったのだ。
その心が、彼女の闇だった。
──馬鹿だ。
なんて馬鹿なんだろう。彼を罵ることで自分の気持ちを見定めようとしたなんて。彼を利用した自分に彼の暗闇を責める権利はない。
あの水面のように静かな瞳が思い出される。彼と言葉を交わし、静かな瞳で見つめられている時だけが彼女を自由にしてくれた。
あの時、確かに自分は願っていたものを手に入れられていたのだ。
──会いたい。
どんなことをしてでも、会って話したい。話して、出来ることならその手に触れてみたい。
それだけで、いい。
決断し、彼女が頬を打つ風の冷たさに気付いて立ち上がった時、山間に明かりが灯った。あそこに人家は無いはず、と眉根をひそめて見つめていると、そこからそう遠くない所でまた明かりが灯る。胸がざわついた。
「……なに?」
耳を澄ませる。木々の囁く声に鳥の羽ばたく音が重なり、熊笹が波のように揺れた。
そこへ紛れ込むようにして、時折聞こえるか細い声。動くことも叶わぬ、根差した土地に己の運命を共にするだけの者──木が泣いている。
明かりは点々と増えていく。そして少しずつ、黒い森を侵食していくのがわかった。
喉を引っかくような臭いが風に乗ってやってくる。
「そんな……」
彼女は最悪な状況に思い至り、口許を覆った。
狩りが、始まったのだ。
──それも、今までの比ではないほど、大規模な。
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