気晴らしのつもりで男に何のチケットか、と問えば、今まさに自分が向かおうとしているコンサートのチケットだった。
地域の老人会で祖母が貰ったものを、ぎっくり腰になり、歩くこともままならぬ祖母の代打として嵐が赴いたのである。興味がないと言えば嘘になるが、他人に譲渡することに抵抗もなかった。これ幸い、とばかりに渡そうとするが、男は頑として受け取らない。
早いところ立ち去りたい気分になっていた嵐が問うも答えは要領を得ず、ああだこうだと言っている間に開場の時間が過ぎた。諦観した顔の男を放って行くのも忍びなく、仕方なしに神社で休息を取りつつ、今に至る。
「観たいんじゃないんですか」
「ああ、うん、いや……観たいとかじゃくてね……」
要領を得ぬ口ぶりの健在に嵐は軽く溜め息をつく。その様子を見て男はまたすまなそうに謝罪した。
「わたしのことはいいから。行って下さい」
そう言う顔には焦燥感も見えた。こんな顔をする人間を置いていけば何をするかわからない。
「いいですよ。元々こういう趣味もありませんから」
半ば本音に近いことを言うが、それが男にはいたく不思議に聞こえたようだ。
その顔に初めて表情が現れた。
「では一度も行ったことがないんですか? コンサートに?」
「はあ」
「勿体無い」
初対面の人間に何を惜しまれなければならないのだろうと考えていると、男はぽつぽつと話を続ける。
「……音楽というものを作った人は本当に素晴らしい。きっとこうして座っている間にも、耳にする音を拾って旋律を作り上げたのだろうと思うんですよ。それをどうにかして周囲の人に教えたくて劇場やホールが作られた。現在にまで続くその一環に自分も加われると思うと面白くないですか」
「はあ」
熱っぽく語られても、と苦笑する。
音楽に興味がないと言えばそれは嘘になる。元々父親がそういう趣味の持ち主で、ラジオから流れるクラシックや、テレビで放映されるコンサートの様子などを見ながら指揮者の真似事をしていた。
音楽と共に体を揺らし、腕を振っていると自身がその音楽を奏でているような錯覚に陥るのだという。それは気持ちいいんだぞ、と笑って言った顔を思い出した。
しかし嵐にとって音楽とは非日常であり、決して生活の主体にくることも表立って趣味にすることでもなかった。
本を読み、ご飯を食べ、お茶をすするその側で流れていればいい代物である。
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