決して嫌いではないのだが、という意味も込めて曖昧に返答すると、男は苦笑した。
「やっぱり駄目なのかなあ、若い人にクラシックは」
「……嫌いってわけじゃないですけどね」
 思わず呟いた嵐に男は、あはは、と笑って返す。
「いやいや。おれのかみさんもそんな感じでしてね、クラシックって言ったらベートーベンしか出てこないような奴なんです」
 砕けた口調には諦めたような感がある反面、親しみやすさがにじみ出ていた。話せばかなり面白い人間なのかもしれない。
「バッハ、シューベルト、チャイコフスキー、ホルスト、ラヴェル。……彼らはいつも彼らの作る楽曲から語りかけてくれる。その声を聞けた時、その楽曲の演奏は成功するんです。それが出来る奴は本当に幸せですよ」
「声ですか」
「そう」
 男は視線を繁華街に向ける。華やかなネオンが目にしみた。
「声にはもう一つありましてね。そこらかしこに落ちている音楽、例えば人の話し声や車の音、信号機とか風の音……それらはとても小さな声で音楽にしてくれる者に呼びかけている。少し前まではわたしにもその声が聞こえたんですがね」
「音楽か何かに関わることでも?」
「作曲家です。佐東清史って聞いたことないですか」
 あらぬ方向に視線をさ迷わせる嵐に清史は笑ってみせた。
「ないか、やっぱり。……そうだな、最近作ってないものな」
「……すみません」
「……声が聞こえなくなったからな」
 ぼんやりと呟くその声に微かな絶望感が滲み出ている。だがその表情はどこか諦めた風だった。
 何を諦めたのだろう。
「スランプじゃないんですか」
 清史を横目に見ながら言った。ちらつく繁華街の光がぼんやりと歪んでいく。そこに溶け込む往来の人々の輪郭も歪んでいき、笑っているのであろう表情すら見えにくい。ただ笑い声のみが静かな神域になだれ込み、それが不思議な安堵感をもたらした。
 こことあそこは流れる空気が違う。
 ただの静寂は不安しか与えないが、この独特の静寂は気分を穏やかにさせた。
 これが、声というものなのだろうか。
「聞こえなくなって二年以上経つ。スランプじゃない」
 急に飛び込んできた声にやや驚きつつ、そういえばこの問いをかけたのは自分だったと思い出す。
 清史は繁華街から視線を自分の両手に落とす。組んだ手はわずかに汗ばんで繁華街の光を反射した。しかし大部分に影を抱く手には、今は見えずとも沢山のたこがあることを清史は知っている。
 声を聞こうと──詩にしようと、足掻いた痕跡が。
「見放されたんですよ」

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