手記



手記


 水たまりの中を長い間覗いてはいけない。
 短い時間ならともかく、長い間そこに影を落とし込むと魂を持って行かれる。
 だから、水たまりを見つけたら気を付けるんだよ。
 特に、鏡のような水たまりには。


 私の祖父はいたって普通の老爺であった。曲がり気味の腰に悪態をつきながらも毎朝の散歩を欠かさず、同じく散歩中の犬を遊んでやったり、井戸端会議に参加したりはするが、見知った土地から極端に離れてどこかへ行くほどの社交性や積極性はない。
 好きなものは昼過ぎにやっている古い時代劇の再放送と、祖母に触発されて見始めた韓国ドラマだ。六歳になる孫の愛想を取るために戦隊物や奇妙な猫の出てくるアニメなども見ているが、存外、楽しんでいるようだった。
 酒量は普通、カステラが好きで、私が手土産に持って行くと祖母へ早くお茶を入れるように告げる。決して自分では入れようとはせず、昔気質の人だねと祖母に言ったことがある。すると祖母は苦笑して、そうでもないよと言った。孫の前では意地を張っているのと。もう一人の孫の前ではでれでれなくせにどうして、と問うと、あなたがもういい大人になったからと答えた。かっこつけたいだけでね、本当はカレーくらいなら作れるように教え込んだんだからと祖母は笑って教えてくれた。残念ながら、このカレーを食べられることなく、祖父は亡くなった。享年九十七、大往生と言ってもいいが、不謹慎ながらきりよく百歳を目指してもらってもよかったと思う。だが、あっぱれな長生きで、葬式もどこか晴れ晴れとしていた。
 祖父母の家は都内から車で二時間ほどの山間にある。かつては人数相応の村という単位であったが、近年の市町村合併のあおりを受けて町にまで昇格した。いや、昇格したと言ってよいものか。人が暮らす場所と暮らせない場所、不等号の大きな口は後者へ大きく開かれるのだから。
 山に囲まれた静かな町、言い換えれば山しかなく、かつて村だった地域は限界集落への道を静かに進む。ただ、ここ最近はIだかUだかでやってきた若い人もいるようで、彼らをいかにして地域社会に迎え入れるかが議題だと祖母は語っていた。田舎は密接な人付き合いが望める一方、来訪者に対しての扉はめっぽう硬い。自分たちもそうだったから力になりたい、と祖母は言う。
 祖父母の出身は東北地方であり、私が産まれるはるかに前、この地域へやって来た。どういう経緯でそこに住むに至ったかは聞いていないが、縁もゆかりもない場所に住むことを決めたからには相応の覚悟と事情があったのだろう。祖父が生きていた頃はいつか聞けると思っていたし、母に聞いてもあまり色よい返事を貰えなかったので、かつての私はそこですっぱり諦められた。それよりも楽しい事、気になる事が日常に溢れていたからかもしれない。だからと言って、今の日常がそうではないという事にはならないのであしからず。
 ともあれ、祖父母は来訪者であり、その土地の者ではなかった。今のように様々な通信手段があるのならまだしも、昔は電話一つにも気を使う時代である。土地に馴染むまでに相当な苦労があったことは想像に難くない。
 祖父の紹介はここまでにしておく。総じて言いたかったことは、祖父は至って普通の人だ、ということだ。人の数だけある生活の中にあって普通に幸せを得て、相応に苦労をし、いくつかの涙を積み重ねて鬼籍に入った。
 だから、私はそんな祖父が常々口にしていた内容に何とも言い難い違和感を覚えていたのである。口にするほどの違和ではないにしろ、何かの折にふっと浮かび上がって小さな痛みを残す、記憶に刺さった魚の小骨とでも言おうか。それがずっと、取れないのだ。

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