手記



 祖父は私が物心ついた頃から、しきりに「水たまりを長く覗いてはいけない」と言っていた。幼い私は、洗面所は、トイレは、と身の回りにある水の溜まった場所を列挙して聞いたが、祖父は笑って首を振る。家の中の水はいいんだ。気を付けるのは雨なんかで自然に溜まった水だ。
 さっぱり意味がわからない。水はどれも水である。その後、家の中の水には多少の塩素が混じっているぐらいの違いを見出すことは出来たが、それを祖父に突き付けても笑って首を振るばかりであった。わからないなら、それでいいんだよ。まるで小さな子供をなだめるような言い方に、その時の私はかちんときた。そして恥ずかしながら祖父へ暴言を吐き、後々、困り果てた祖父から電話が来てお互いに謝り倒すことになった上、母親からもめっぽう怒られたことは親戚の間で笑い話になっている。
 あまりいい思い出でもなかったからか、そんな記憶はすっかり箪笥の底に追いやっていた。気づいた時にはカビをまとい、だからと言って、そのカビを払って再び綺麗にしまい直すほど大切でもない記憶。
 しかし、思いも寄らない時にそれが転がり落ちてくると、それは大切でもない物から、何かしらの意図を含めた物へと変貌する。偶然とは必然がその皮を被っただけのものだ。だから、私はこうして自身の記憶を掘り起こしている。転がり落ちた必然とやらが、一体、いつ偶然の皮を被ろうと思ったのか。それを知りたいのだ。
 あれは大体、三週間ほど前になるだろうか。年末に向けて仕事の追い込みが始まり、誰も彼もがぴりぴりしながらも、その先に横たわるイベントや連休を思って自らをなだめていた時だ。無論、私ももれなくその一人であった。とは言え、クリスマスや大晦日、初詣を一緒に過ごそうなどと思ってくれる彼女もいない。クリスマスは仕事、どうせ早く帰してくれるような甲斐性はないから端から諦めている。大晦日や初詣もわざわざ慌ただしく迎えることはないと思っていたから、実家に帰るつもりだった。
 だから、クリスマスを間近に控えた日曜日、私は久しぶりに実家へ電話した。
 日曜だから最低でも両親のどちらかはいる。だが、年頃の妹や、頭の上がらない姉の登場は御免こうむりたい。からかわれるか、小遣いをせびられるかのどちらかだ。私は目の見えないサイコロを振る思いで電話をかけた。
 数回のコール音の後、「はい」と聞き慣れた声がする。私はサイコロの神がいたとしたら、最大の感謝を送りたい。女系の家族の中で唯一最大の味方である父の声だった。
「もしもし、俺だけど」
 普段の私は自称を「俺」としている。「俺」では恰好がつかないから、こちらでは私を使用していることを了承されたい。
 電話の向こうでサーという音がする。環境音とでも言おうか、音とも言えない音の中で、父が沈黙するのがわかった。私は慌てて自分の名前を続けた。
「雄平だよ」
 すると、明らかにほっとした声で父が「なんだ」と言った。

- 227 -

[*前] | [次#]

[しおりを挟む]
[表紙へ]




0.お品書きへ
9.サイトトップへ

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -