050.雫と二人(1)


 一定のリズムで流れる電子音を耳にしながら、タカミネは椅子に座って皺だらけのその顔を見た。

 入院生活で白くなった顔には幾筋もの皺が刻まれており、すっかり後退した髪の毛も白く、枕に広がっている。ロマンスグレーと言うには少々白すぎた。元ピアニストと言うだけあって、骨ばった指は今でも長くすらっとして見えるも、小枝のような感覚を拭えない。

 全身真っ白で覇気が無さそうに見えるが、鋭く尖った鷲鼻に真っ青の瞳は未だ若さを忘れてはいない。特に、白い面の中にぽつんと青空が足跡を残したかのような瞳は見る者を魅了し、実際、タカミネもその瞳が本当に好きだった。

 皺の寄った口を動かして、ギルはタカミネに声をかける。

「……今、何時かね……」

 高齢の割にはっきりとした声の持ち主である。いくらか言葉がおぼつかないのが唯一、その年齢をタカミネに思い出させた。

 腕時計を見て、ギルに視線を戻す。

「朝の五時ですね。まだ三十分です」

「グッドボーイ。……タカは随分早起きだな」

 ギルはタカミネのことを親しみを込めてタカと呼び、誉める時には「グッドボーイ」と言う。そう呼ばれることに慣れて、今年でもう何年になるのだろうか。初めは犬ではないのに、と憤慨していた気がする。ギルはこの病院の入院患者の中でも古参中の古参にあたった。

「ギルの早起きには敵いません」

「当然だ。そうそう負けてたまるか」

「最近、食事の量が減りましたね。胃が小さくなりましたか」

「……年だ」

「それだけの高齢で年を言い訳にされると異様な説得力がありますよ」

「お前こそ、ちゃんと食べているのかね。ひどい顔だ」

 青い瞳がタカミネを射抜く。

 本当に、この目には敵わない。

 黙して答えるとギルは顔をドアの方へ向けた。

「このあいだ、随分と忙しそうだったな。その所為かね」

「……そんなところです」

「……わたしに、何か言いたいことがあって来たんじゃないのかね?」

 ドアから視線を戻して、ギルはタカミネを見据える。タカミネは苦笑した。

「……この病院を今日付けで辞めるんです」

 ギルの青い目が大きく開かれる。

「ヘマでもしたか」

「いえ、自主退職です」

「医者をやめるのか」

「別の場所で医者をやろうと思っています」

 別の、とギルは口の中で繰り返す。タカミネは膝に抱えていたファイルから書類を取り出し、彼に見えるようにして掲げた。

 印字された文字列を目で追いながら、ギルは呟く。

「紛争地帯……軍医か?」

「少し違います。NPOとして行くので」

「……国境なき医師団だな」

「そんなところですね」

「ここが嫌になったのかね」

「いえ、違います。ここには最高のドクターと最高のスタッフがいるし、待遇もいい。一つ難点を挙げるとすれば食堂が閉鎖状態にあることぐらいですか」

「何故、と聞いていいか?」

 ギルは視線をタカミネに移す。タカミネは書類をしまいながらどう言おうか考えていた。

 実際、こうして行動におこしてみると自分がどんな考えに基いて動いたのかわからなかった。普段は冷静な自分の中にこれほどの激情があるとは思わず、自分でもその扱いに困っている。

 だから、挨拶を兼ねて、気持ちを整理する意味でタカミネはギルの病室に入ったのだった。

 しばらく考えた後、タカミネは小さく息をつくと共に言葉を吐いた。

「ここで、私の医学の限界を感じたからです」

 ギルは黙って聞く。

「この病院には感謝しています。私をドクターとして育ててくれたスタッフやドクターにも感謝している。……でも、ここでは私が持つ医学を貫くには限界がありすぎる」

──この、小さな手。

 カルテを整理するよりも、帳簿をめくるよりも、スタッフを叱り激励するよりも──この手の小ささを噛み締めて患者と向き合いたかった。

 どうせ小さい手なら、それで救えるだけの患者を救ってみたい。誰かの命に自分の医師としての命を捧げてみたい。だが、それはここでは出来ないものだ。

 親しんだ友人やスタッフがいたとしても、彼らが自分を慕ってくれたとしても、それに心から応えるだけの余裕が自分にはない。

 だから、自分の──医師としての限界を見てみたくなった。見てみたいと思ってしまったのだ。

 我ながらあまりに遅い冒険心に笑えてくる。心を殺して生きた自分にこんな炎がまだ残っていたのかと驚きさえした。

 しかし、歩くべき道が目の前に見つかった時の喜びは何ものにも変え難かったのだ。

 まだ自分には歩くべき道があったのだと、本当に嬉しかった。


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