050.雫と二人(2)


「そうか……いつの間にか成長したということか」

 ギルは天井へと視線を投げて、半ば独白のように続けた。

「わたしにもそういう時はあった。わたしの場合はピアノだがね。……そして、そう思った時の足はなかなか止まり方を知らない」

 その青い目は過去を見ているのだろうか、それともタカミネの未来を見ているのだろうか。ふと不思議になった。

 静かにその言葉を聞いているとギルは枝のような腕を持ち上げ、手をタカミネに差し出した。

「グッドボーイ、ドクター・タカミネ。しばしのお別れというわけだ」

 ドクター・タカミネ。

 その言葉に彼は目を最大限にまで開き、ギルの細い手を取った。すると、ゆっくりと握手を交わされる。

「だが、忘れないでおくれ。わたしの担当医は永遠にお前だけだ」

 言いながら空いている手でタカミネを指す。

「手紙の一つでも寄越すことだ。でなければこの年寄りはすぐにお前の顔を忘れてしまうからな」

 タカミネは泣きたいような笑いたいような気分に陥りながら、ゆっくりと握手を交わし続け、「いってきます」とだけ言って病室を後にした。

 ERに戻るとそこはもう朝の戦場と化しており、早朝から外来が絶えない。相変わらずの様子に半ば安心しながらスタッフルームに入る。途端に喧騒が遮断された。

「……ああ、タカミネ先生」

 先客でロッカーに向かっていたマルコが振り返る。取り出した白衣と聴診器を首にかけた。

「今日、でしたっけ」

「ああ。世話になった」

 タカミネの差し出した手をマルコは強く握る。

「それは僕のセリフです。取らないで下さいよ。最初の赴任はどこに?」

「イラクに」

 マルコが息を飲み、握手をほどいた手で頭に手をやる。

「優秀な医師が欲しいってことでしょうかね」

「そうだったら嬉しいんだが」

「ご無事で。ちゃんと帰ってきて下さいよ」

「あら、お邪魔」

 早足で入室したニアに代わり、マルコはタカミネに手をあげて挨拶しながら部屋を出た。

 衝立を自分とタカミネの間に置いてロッカーを開いたニアが快活に話しかける。外科勤務の彼女がどうして、とも思ったが、アカシが亡くなって空いた分、新しいスタッフの教育も兼ねてERへ出向しているのだった。

「今日ですよね。立ち聞きするつもりはなかったんですけど」

「隠しておくことでも無いしな。何かあったのか?」

「薬中に思いっきりぶっかけられて。朝から憂鬱だわ」

「残念ながら代わってはやれないな」

「ご心配なく。今はハワード先生にお相手してもらってます」

「それはそれは」

 ばたん、と勢いよくロッカーが閉められた。衝立をどかしたニアが握手を求める。それに応じて右手を差し出すと、ニアはその上から左手を被せた。

「……ええと」

「これはアカシの分」

 唐突に繰り出された言葉に驚いてタカミネが言葉を失っていると、ニアはにこりと笑う。

「滅多に見れないものを見れて得しました。必ず帰ってきてくれることを待ってます。皆も、アカシも」

 頑張って、と言って手を大きく一振りするとニアはぱっと手を離し、部屋を出て行った。

 いくらか面食らいながらのろのろとロッカーを開けてしゃがみ込み、用意しておいたダンボール箱に私物を突っ込んでいく。いつか食べようと思って入れたままのスナック、使い果たしたメモ帳、患者から貰った造花、手紙──他のスタッフよりはずっと整理されているものと思っていたが、細長いロッカーからはこれでもかとばかりに彼の過去が飛び出してきた。

 分厚い医学書が三冊ばかり出た時には思わずうめき、不承不承、ダンボールに突っ込む。換えの白衣などは先に持って帰れば良かったな。

 立ち上がって上段に目を向けると、ロッカーのドアの裏に目が行った。

 それほど人付き合いが良いとは言えない自分だが、病院のスタッフの催事にはよく参加したと思う。

 ハロウィン、ハワードの誕生日、クリスマス、ニューイヤー、病院内のチャペルで行われた結婚式、そして何故か行われた自分の誕生日。そのどれもここ数年は自宅ではなく、病院の慌しい空気の合間を縫って行われ、そして何枚もの写真が皆に配られた。その結果がこのロッカーのドア裏である。


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