049.洗い立ての匂い(1)


「気分はどう?」

 努めて冷静に問いかけるも、彼は今日も黙ったままだった。いつものことである。大して気にはならないし、悲しくもない。ただ、今にも死にそうなその顔が腹立たしかった。

もう時計は夜の七時を回っている。外来も殆どが引き上げ、残るは重傷か担ぎ込まれた患者か、もしくは彼らの為に動き回る医師や看護師のみであった。警備もその中に含まれるだろう。

ブラインドを下ろした窓の外には夜闇が舞い降り、その向こうで車のヘッドライトがちらついて見える。廊下に面する窓にもブラインドを下ろしているので、病室はスタンドの明かりのみで薄暗かった。人々の目を気にするのなら、これが最善らしい。

 ヘレエはカルテを片手に彼の傍に座り、いくつか問診をする。

 意識清明、言葉数は非常に少ないものの、言語障害はない。身体の麻痺が多少残りはするだろうが、生活に支障が出るほどではない。経過は良好、既往症もなし、アレルギーもない。いくらか高血圧のきらいがあるが、食事療法と運動で何とかなる程度のものだ。

 カルテに必要事項を記入して膝に置き、ヘレエは初めてと言っていいほど、男をじっくりと見た。

 うっすらと焼けた肌とくせの残る黒い髪、同じように黒い瞳には絶望がちらついており、こけた頬や落ち窪んだ目と合わさって死神を連想させた。これでも中身は健康体なのだから笑えてくる。

 名をジョーイ=デイスと言い、先だって爆弾をあの店に持ち込んだ当人だ。

「一週間経ったわ」

 ジョーイの反応はない。これも慣れている。

「術後の経過は良好、これなら安心して警察病院に連行してもらえるわね。喜びなさい、これで刑務所のような病院から本物の刑務所に行けるわよ」

 反応はない。彼一人の為にあてがわれた病室は異常に静かだった。

「一つだけ聞かせて」

 初めて、ジョーイが反応を見せる。本当に初めてのことだった。

「あの……爆弾は何のため?」

 少しの間、「爆弾」という言葉を口にするのを躊躇ったヘレエだが、自らの疑問に打ち勝つことは出来なかった。

 否、自分だけではないだろう。この病院にいる者全てが彼に疑問を抱いている。

 ただひたすらに、「何故」と。

「……答えは無さそうね。いいわ、警察病院にでもどこにでも行って言いなさい。でもこの機会を逃したら、あなたは永遠に後悔する。……きっとわたしも」

 再び、ジョーイが反応を見せた。今度は誰の目にも明らかに、そのうろんげな双眸をヘレエに向ける。

 初めて彼の目を真正面から見据えたヘレエはその暗闇の濃さに息を飲んだ。どこまでも深い黒は深淵の縁を思わせる。この暗闇があの店も──そしてアカシまでも飲み込んでしまったのだろうか。

 それなら余計に「何故」と訊きたい。

 じっと、挑戦するつもりで彼の目から視線を離さず、ヘレエは真正面から対峙した。

 やがて、ジョーイはその薄い唇を開く。

「……どうして、生きてるのかな、僕は」

 暗闇がそのまま体当たりしてきたかのような衝撃を受けた。

 ヘレエは言葉だけではなく、息までも飲み込む。

「僕は、どうして、生きているんだろう。この手を……切り落としたくて堪らなかったのに……」

 静かに両手で顔を覆い、言葉の最後の方では半ば叫ぶようでもあった。

 堪らなくなって乱暴に立ち上がり、カルテを片手に逃げるように病室を出る。ドアに背をつけて、いつの間にか詰めていた息を吐くと、そのまま膝から力が抜けたように座り込んでしまった。近くに佇む警察官たちが驚いたように顔を見合わせる。

「おい」

 通りかかったネイサンが警察官の手を避けてヘレエを立ち上がらせ、病室の前にある硬いソファに座らせた。その間もヘレエは顔を両手で覆ったままである。

 ただならぬ友人の状態に、ネイサンは不安が広がるのを感じた。

「何かあったのか?」

「……あんな奴の所為でアカシが死んだと思うと腹立たしくて堪らないわ」

 両手を下ろして、うっすら滲んだ涙を拭う。アカシの葬式でも見せなかった涙を思いがけず見る羽目になり、ネイサンは両膝に両肘を置いて、彼女の顔を覗き込んだ。

「彼女が死ぬ理由なんて一つも無かったはずよ。考えたことある?自分がこれから行く先で死ぬかもしれないなんて。誰もそんなこと考えて生きてなんかいけないわ……」

「お前の所為じゃない」


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