048.虹と追いかけっこ(3)


 他の者に、と言われても周囲を見渡して気安く聞ける状況ではない。皆、各々の果たさんとする目的の為に必死の形相で走り回っている。

 完全に困ってしまい、その場でうろついていると前方からタカミネが走ってきた。

「何してる!こっちだ!」

 途中で足を止めて手招きをする。その後をついていくと、タカミネが涼の白衣を掴んで自分の横に並ばせた。

「お前は医者だな」

 不意に、その低い声が涼を喧騒から遠ざけた。

「何を」

「医者なら職務を全うしろ。お前はお前個人である以前に、もう医者でなければならないんだ。わかったか」

「先生、何を一体」

「イエスとだけ言え。否定は許さない」

 言うや否や足を止め、目の前に立った外傷室の扉を力一杯開けてその中に涼を押し込んだ。たたらを踏んで外傷室に入った涼を、待っていた看護師が白衣を脱がせて手術着をつけさせる。されるがままにグローブをはめた涼がドアを見るとタカミネが立っており、顎をしゃくる。見ろ、と言われているようだった。

 いくら戦場のようと言っても、これは横暴では、と思いながら手術台に横たわる患者を見る。

 看護師や先に入っていた医師が目の前を動き回る中、その患者は全身焼けただれて夥しい量の血が床に広がっている。気管内チューブが口に突っ込まれており、点滴が全開で打たれていた。心電図は今のところ安定しているが、医師らの様子を見る限りでは安全な状態とは言いがたいのだろう。

 いや、それだけじゃないのかもしれない。

 涼は目を最大限にまで丸くした。

「……アカシ」

 どれだけ相貌が変わろうと、この戦場のような病院で共に戦う人間の顔を間違えようがない。

 涼は心臓を掴まれる想いで後ろを振り返る。既にタカミネの姿は無かった。

──お前は医者だな。

 何て、重い言葉だろう。

 心電図の電子音が異様に大きく響き渡った。

 タカミネは騒がしい廊下を掻き分け掻き分け、ようやく辿り着いた窓を開けて詰めていた息を一気に吐いた。本当はこんなことをしている暇は全く無い。だが、少しの間だけでも、この喧騒と悲鳴から逃げ出したかった。

 つい、と上げた視線の先にのんびりと虹がかかっている。ビルの架け橋よろしく、のほほんと架かる姿はまるで必死な人間を馬鹿にしているように見えた。

 そう思ったタカミネの意を汲んだのか、根元から段々と消えていく。

 薄れていくさまが、まるで人の命の儚さのようだった。

──なぜ、彼女が。

 タカミネは歯を食いしばって窓の桟を力一杯握り締める。何故、どうして、何故彼女があんな目にあわなければならない。あまりにも理不尽すぎる。

 どうして、と食いしばった歯の間から声を振り絞った。

 虹はゆっくりとその姿を希薄なものにしていく。アカシの命も、虹とおいかけっこするかの如く、その姿を希薄なものにしているのだろうと思う。

 一目見て、長年の経験から助からないとわかった。わかったからこそ自分が処置をするのは耐えられず、涼に任せた。

──何故、何故。


……やがて、虹は名残を惜しむ間もなく消えていった。



終り


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