066.非常口の向こう(3)
しばらくボールを手に遊んでいると、今度は草むらが大きく揺れる。仔犬の関心はそちらへ移り、ツァリも少し警戒しながら草むらを見た。生徒なら適当にあしらうことも出来るが、講師となると面倒である。煙草の匂いはまだ消えていない。
すると、のんびりとした声が聞こえてくる。
「……おっさんの足腰を馬鹿にするなよお前……」
ツァリは息を飲んだ。聞き覚えのある声は息切れも激しく、乱暴に茂みを掻き分けてこちらへ向かってくる。
逃げよう、と一歩後退しかけた。
だが、遅かった。
「っしゃあ!ほーら追いついてやったぞ、こらぁ!!犬の分際で人間をまこうなんて……」
無精ひげを生やしたさえない男は、草むらから飛び出すや否や仔犬を指差し、高らかに勝利を誇った。しかし、その向こうで突っ立っているツァリの存在に気付き、高揚した気分が急転直下で落ち込むのを感じる。
「……全部、見たのかお前」
仔犬を指差した恰好のまま、メイオンは固い声で尋ねる。
「……ええ、まあ」
負けず劣らずの固い声でツァリが答えると、メイオンは必死の形相で言った。
「言うなよ。絶対に誰にも言うなよ。おれはこいつを保護するために来たんだからな。決して遊ぶために来たんじゃないんだからな」
そう言うメイオンの足元に、仔犬はすり寄った。ツァリが何となしに、持ったままのボールを投げて寄越すと、仔犬はボールをくわえて誇らしげにメイオンへ見せる。さすがに、ボールを投げた本人の前では利口なようだった。
「………保護?」
「いいじゃねえか!減るもんじゃねえし!何だよその目は!!」
今度は開き直って仔犬を抱き上げる。これでも元素学の講師なのだからおかしな話だった。頭脳に人間性は関係ないという、いい実例である。
メイオンはぶつくさと文句を言いながら、ツァリを見る。
「ったく講師への尊敬ってもんがねえなあ……ここらで「先生、安心して下さい。秘密にしておきます」の一言ぐらい言えっての」
「元素学は尊敬してる。それと先生は別でしょ」
「……誰にも言うなよ」
「言わないよ。面倒だし」
「面倒って……うん?そういやお前、今何してんの。講義は?」
ツァリはメイオンから視線を反らした。
「別に」
メイオンは腕時計を見て、嘆息した。
「占星学か。お前、ノアク先生とこないだやり合ったんだって?」
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