『ああ、賢者さまはあの森に住んでいるのかい』

 キィ、老婆の腰掛けた揺り椅子が軋んでいる。昔あそこに村があってね、と彼女は昔を懐かしむように目を細めた。

 神聖な森だった。豊かな森だった。人を受け入れて豊穣をもたらしてくれる森だった。
 その恩恵を受ける村の唯一の悩みは、行方不明者が定期的に出ること。
 いなくなるのは決まって若く美しい乙女たち。彼女らが消えた後には、巨大な生き物が這った跡。
 森の神の嫁にされたに違いないと大人たちは噂し、けれど女たちを探すことも、真相を突き止めようとすることもせず。
 自分の妻が娘が妹が「次」なのではないか、恐怖に震えながらも名誉なことだと口にして気を紛らわせ。

『怖かったんだろうねぇ、攫っている神の怒りに触れ、森の恩恵を受けられなくなるのが』

 キィ、老婆は語る。最後にいなくなったのは自分の、年の離れた姉だった。それを最後に村はなくなり、村人は散り散りになった。もう村はない。もう、誰も住んでいない。
 老人の昔語りを静かに聞きながら、彼女の怪我の具合を見、処方する薬の量を手帳に書き込んでいる。懐から薬の包みを取り出し、老婆に持たせた。

『ねえさま、今も神様と暮らしてるのかねぇ』

 だったら幸せでいてほしいね、老婆は笑顔で締めくくり薬を握る。笑って相槌を打った。今日の診察と処方は終わり。

『いつかねえさまに会ったらよろしく伝えておくれ、森の賢者さま』

 そう言って手を振る彼女に、苦笑いを返しながら一礼する。その呼称は未だに慣れない。




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