「おはよう、レム」 「……おはよ、アウネさん」
変な夢を見た。ここに来てから十回目の朝を迎えたが、夢を見たのは初めてだった。 今日も頭の中身は真っ白だ。思い出の箱は空っぽだ。重い瞼を持ち上げれば、朝だというのに外は少し暗く、あまり天気はよろしくないらしい。そしてやはり今日も、すぐ近くに男の顔があった。何度言っても顔を覗き込んでくる彼にも慣れたもので、雨が降っているかと寝ころんだまま尋ねれば、短い否定が返ってきた。
「昼からは晴れるだろう」 「なら、今日も外に出られるなぁ、よかった」
身体の下に敷いた毛皮がふわふわと心地よくて離れがたいが、己を叱咤し身体を起こした。ブランケット代わりにかけていたマントと一緒に丁寧に畳む。
「あ、そうだ。アウネさん、前から言いたかったんだけどさ、いい加減、一緒に行かない?」 「何故」 「いや、いつも後付いてきてくれてるし。それなら最初から一緒に出かけようよ」 「む!?」
身支度を整えながら声をかけると、アウネンゴデムはぐぅ、とカエルが潰れたような音を出し、目に見えて動揺し始めた。普段は静かな尾が、ぱたぱたと忙しなく揺れている。 後ろから聞こえる音だけではなくて、通ってきた道には巨大な蛇の這い跡があって、俺は自分で付けた印よりも分かりやすいそれを辿って彼の棲家まで帰ってきていたんだけれども。こんなにわかりやすいのに、彼の反応を見るに、今までバレていないつもりだったのだろうか。
「俺を狙おうとしてた獣とか捕まえてくれてたんだろ、ありがと」 「………………」
素直に礼を言えば、手のひらで顔を覆ってしまった。隠しきれなかった隙間から、褐色の肌が赤みを帯びているのが見えた。大蛇の部分がとぐろを巻き、丸くなる。アウネさん照れてる、と冷やかすように言えば、今回は気を付けていたつもりだった、と蚊の鳴くような声が漏れた。 アウネンゴデムは優しい。恋した相手が子を成せない男だと知っても、つがいに出来ないと分かっても、何かと気にかけてくれる。ここに置いてくれているのもそうだし、こっそり道中守ってくれていたのだって。シーツ代わりに立派な獣の毛皮をくれたのも彼だし、俺の食事を気遣って木の実なんかも沢山採ってきてくれる。彼には生肉があれば充分なのは見ていれば分かるのに。とても優しいと俺は思う、でもそれを指摘されるのは結構苦手なようだ。また一つ、彼のことが分かった。
「あ、アウネさん、次の大きな樅の木を右で、しばらく真っ直ぐお願い」 「承知した」
しばらく恥ずかしがって丸まっていた彼をどうにか洞窟から引っ張り出し、その背に乗って移動を始めてから少し。あやしい雲は流されていき、太陽が顔を出し始めた。 ふわふわ白い長髪に木陰が落ちて、それに編みこまれた赤い花がすぐ目の前で揺れている。鮮烈な赤を指先で撫でて、綺麗だ、と素直に思った。なかなかじっくり見る機会のなかったそれに近づいて観察してみる。花弁は柔らかで丸く可憐な形。内側に行くにつれて濃さを増す赤に顔を寄せれば、どこか懐かしい甘い匂いがした。
「ねえ」 「何だ、レム」 「アウネさんってなんでこんなに花を付けてるの?」 「恋をして、花が咲いたからだ」
極めて簡潔な返答。いまいち答えになっていない気もするが、そういえば初めて会った日にもそんなことを言っていた気がする。恋をしたから、花が咲いたのだと。
「吾らは求婚する側がこの花を差し出して、相手が受け取れば婚姻が成り立つ」 「へえ……あ、これなんて名前の花?」 「知らぬ」
身体と髪を揺らしながらずんずんとアウネンゴデムは進んでいく。俺が一人で歩くよりもずっと早く、そこに着いた。
「レム、ここは」 「薬草が群生してるところ、昨日見つけた」 「記憶が無いのに、それが薬だと分かるのか?」 「分かるみたい」
地面に座りこみ、小さな花をつけた草を眺める。アウネンゴデムに自分の考えを話すだけにしようと思っていたが、急に体調が悪くなることもあるかもしれない、と思い立ち、少しだけ摘むことにした。
「頭の中の、辞書的知識や技術を入れる箱と、生まれてから今までの思い出をいれる箱は、別にあるんだって。だから分かるよ」
俺が失ったのは思い出の箱の中身だけ、そう言いながら薬草を摘んで分けていく。これは煎じて頭痛の時に、これは潰して血止めに。この毒草を薬とする方法、人体に害なす薬同士の組み合わせ、その他管理方法まで。「何故それが分かるか」はまだ分からないけれど、俺はそれらを把握していた。アウネンゴデムは身を屈めて、俺のすることをじっと眺めている。
「多分、そういう職に就いていたんだと思うんだ、医者とか、薬師とか」 「そうか」 「それで、俺はきっと、ここに来たことがあるんじゃないかな」
すぐ隣、薬草の群れの中でも少し背丈の低い物が生えている箇所を指さす。すなわち、誰かが少し前に草を摘み、再生しかけている跡。それがどうも、俺が「初めにここから貰おう」と思った場所と一致するのだ。
「俺、どうにも几帳面なところがあるみたいで、隅から順番に、綺麗に摘んでいきたいんだよね」
記憶をなくす前の俺も、多分ここから摘み始める。他の誰かかもしれないが、アウネンゴデムは森で俺以外の人間を見たことが無いと言っていたから、おそらく俺で間違いはない。
「だからこの辺りに、思い出すきっかけがあればいいなって」
明日からしばらく一帯を探検してみようと思うと口にすれば、アウネンゴデムは無言で頷いた。彼は人が好いので、明日からも付き合ってくれるだろう。
「……ぬしは意外と、強いのだな」 「意外?」 「もっと、儚げで、たおやかな人だと思っていた。思い出せないことが心細くて、泣き暮らすかと」 「あー、見かけからそう思って俺に一目ぼれしてたってことは、そういうのが好みなんだ?」 「…………まあ、そうなる、のか?」
アウネンゴデムは眉をひそめて首を傾げる。どこか合点がいっていないような、そんな顔だった。俺も自分で言っていて納得がいかない。なんというか、儚げとかたおやかとかいう容姿だったろうか、俺は。 浮かんだ疑問にひとまず蓋をして、帰る準備をする。これだけあれば十分だろう。持ち上げた服の裾に薬草を入れて竜尾の男の背に乗り込めば、彼はゆっくりと帰路を辿り始めた。ふわふわの髪に身体をあずけて規則的な左右の揺れに心地よさを感じながら、すぐ傍にある赤い花に手を伸ばす。
「そうだ、これって薬になるとか聞いたことなったりする?」 「この花がか?」 「俺も名前とか効能は分からないんだけど、何か、匂いに覚えがある気がして。薬に使ったこととかあるのかなって」 「…………」 「アウネさん?」
沈黙。彼の尾が枝を弾き飛ばす音がする。分からないなら答えなくても、と言いかけたところで、アウネンゴデムは口を開いた。
「……この花は、猛毒だ。薬になるなど聞いたこともない」 「そっか毒か……いや、ちょっとまって」
事もなげにそう口にする異種族の男。猛毒って。
「アウネさん、つがいにしようと思ってたやつに毒を差し出してたの」 「そういう習わしなのだから仕方あるまい」 「それ知ってる同族なら良いかもしれないけど、次も人間に求婚するなら断りを入れた方がいいんじゃない。素人が触るのは危ないし」 「毒だと言って差し出すのか、少し間抜けだな」 「あっほんとだ」
アウネンゴデムは低く笑って、次、という言葉を反復する。 その声を聞きながら、ふと思う。人間と関わりは持たないと言っていたのに、異種族の人間をつがいにしようとした理由は何だ。何より、男女であろうと見たこともない異種族とつがって子供が作れるとは、普通思わなくないか。何か、おかしくは、ないか。
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