「おはよう、レム」 「アウネさん、俺まだねむい……」
久しぶりに、変な夢を見た。夢を見たのは一月ぶり、くらいだろうか。……確信が持てない以上、夢だと思うことにする。 今日も頭の中身は真っ白だ。思い出の箱は空っぽだ。外は、瞼を閉じたままでもわかるほど、雨が降っているらしかった。さあさあと静けさを運ぶ雨音と肌寒さに身を震わせる俺の目の前には、いつも通りアウネンゴデムの顔があるのだろうことも容易に想像がつく。 目を閉じたまま微睡んでいると、隣に何かが寝ころんで、俺に向けて手を伸ばす気配がする。何をするのか興味が湧いてそのままの体勢でいると、彼はしばらく手を宙に彷徨わせた後、俺の耳を指でそっとなぞリ始めた。
「……なんで耳?」 「吾らにも聴覚はあるが、これは無い」
要するに、珍しいから触って良く観察したい、のだろうか。目を開くと近くに褐色肌の美丈夫の顔が、血のように赤いアウネンゴデムの目があった。ぬらぬらと血のように光る彼の瞳に映った自分と目が合う。するすると何度も往復する人差し指が、頬の表面を不規則に撫ぜていく他の指が、顔の産毛をふるわせる。くすぐったさと同時に、へその辺りからぞくぞくと何かが込み上げる。あ、なんか、これ。変。思わず彼の手をつかんだ。
「変な気分になるから、やだ」 「変な気分、とは」 「言わせるなよ……えっち」
えっち、と彼の低い声が言葉の意味を探るように反復する。ややあって答えに行き着いたのか頬を染め、アウネンゴデムは手を離してくれた。そういうつもりではなかった、それだけ言って目を逸らす。しゅる、と音を立てて顔が少し離れた。
「性感帯だとは知らなかった、赦せ」 「性感帯って。もー直接的な表現やめてよ、スケベ」 「す、助平ではない……」
小さな声でそう言って、気まずそうに頬を掻く。身体を寝かせたまま、しゅるしゅる、しゅるしゅると蛇の部分を伸ばして上半身だけをどんどん離していくアウネンゴデム。そのあまりに真っ赤な顔がだんだんかわいそうになってきたので、助け舟を出してやることにした。
「俺にも触らせてくれたら許してやろう!」 「耳をか? だが吾には無いと……」 「いやいや、俺に無いところ」
なおも遠ざかろうとする彼の顔、その傍まで歩いて腰を下ろす。怪訝そうに俺を伺う竜尾の男の腹、惜しげもなくさらされている見事な腹筋の辺りに手を伸ばす。
「前から触ってみたかったんだ、ここ」 「む?」
筋肉が隆起し割れた人の腹、すなわち身体が蛇に変わっていく境目。そこに散らばる小さな蛇の皮膚の島は、彼が人でも蛇でもない生き物である証だ。興味深い。その一つに指の腹を押し付けながらくるくると撫で、星を繋ぐように指でなぞっていくと、 アウネンゴデムはくすぐったいのか低く笑った。
「吾も、変な気分になってしまうぞ」 「お、性感帯、だった?」 「そのようだ」
初めて触れられたから、吾も今知った。竜尾の男はふっと息を吸って腹に力を入れ、俺を見た。する、と顔に何かが触れる感触に視線を下げると、いつのまにこんなに近くにあったのだろう、彼は白い尾の先端を俺の顎にあて、顔の輪郭に沿って撫でるように動かす。
「とても、心地がいい」 「へえ、面白いな……あ、ムラムラして俺のこと襲ったりする?」 「襲ってしまうかもしれんぞ」 「えっちー」
アウネさんも冗談言うんだね、俺が笑おうとした瞬間、眼前の巨体が起きあがったかと思うと、がばっと両手を広げて俺を抱きすくめ、そのまま子供のように持ち上げた。足が宙に浮いてる。右腕を膝の裏に回して抱えて、そのまま左手を脇腹に伸ばす。
「ちょっ、待って」 「どうだ」 「んんっ、ふふふふっ、は、はっ、やめ」
そして、そのままくすぐりだした。笑いの渦にのまれた俺を見て、愉快そうに口の端を持ち上げ、黒白目をすぅっと細める。初めて目にする、意地の悪い顔。
「ぬしもここが弱いのだな、レム」 「アウネさんのえっち! ふ、ふふはっ」 「心外だ」
どうにか息をしながら目の前の頭をばしばし叩き、手足をばたつかせて逃れようとするが、俺を抱える逞しい腕がそれを許さない。
「楽しそうだな」
うん、楽しい。楽しいな。俺が笑っているのは、くすぐったいからだけではない。そんな気がした。 こんなに笑ったのはいつ振りだろうかなんて、思い出せないこの頭では知りようがないけれど。些細な触れ合いで、どうしようもなく胸が躍って。どうしようもなく心が満たされて。そんな感情は初めてだ、と確信を持って思えるのだ。楽しい。アウネさん、アウネさんも、たのしい? 必死で息継ぎをしながら尋ねると、首の動きだけで肯定が返ってくる。そう、なら、うれしい。
「はー、くるしー……」 「すまぬ、やりすぎたか?」 「いいっていいって、大丈夫」
アウネンゴデムがくすぐる手を止めてくれた頃には俺は笑いすぎてへとへとで、疲れからかまた眠くなってしまった。枕がわりに彼の頭を抱き寄せてつむじに頬をあてれば、赤い花の香りが強くなる。ああ、アウネさんの匂い。落ち着く。
「雨の日って、妙に眠たくなるよなぁ……」 「今日はこの天気だ、視界も悪いし足場も良くない。一日寝ていても構わぬとも」 「アウネさんは出かけないのか?」 「いや、濡れるのはともかく冷えるのは嫌いだ、備蓄も足りていることだし」
泥まみれになるし、雨は好かん。不満そうにぼやきながら、俺を抱えたまま上半身を下ろし、毛皮の上に寝かせてマントをかけた。そのまま彼も横になり、俺に手を伸ばしてくる。 身体を包む温かさに、額にかかる前髪を分ける優しい指に、ずっとこのままでいたい、なんて考えてしまう。今までの人生とか、俺を待っているかもしれない家族とか、そんなことを忘れてしまいそうになってしまう。 そう、彼が俺に何を隠しているか、なんて、どうでもよく。とろとろと心地良い微睡みに身を任せ、目を閉じる。
「ねえ、もし、もしもだよ……俺が女の子……だったら……」 「うん?」 「アウネさんにならどうされてもいいって……とっくに思ってたんだろうなぁ……」
そんな血迷ったことを考えて、笑っちゃうくらいには好きだよ。そう夢心地で続ける前に。
「…………」
ぴたり。俺を撫でていた手が止まった。何か声をかけようと思ったが、睡魔に阻まれて上手く言葉にならない。雨の音。睡魔に引きずられる。遠く、マントごときつく、きつく抱きしめられる感覚。
「……ゆるして、くれ」
意識が現実から切リ離される寸前、ぽつり、苦しそうな声が聞こえた気がした。
「ゆる、し…………」
瞼の奥、彼の長髪の中で赤い花が揺れている風景が見える。何の変哲もない夢。そういえば、今日見た彼の髪は、初めて会った時よりも花が増えていたような気が。ああ、違う、何も疑いたくない、信じていたい。信じて。 夢の中の彼は悲しそうに笑って俺の頭を一撫で、風に消える。
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