「見てしまったな、レム」

 あの夢は、あの記憶は、俺のものではない。何かがおかしい。混ざっている。けれどその疑問に蓋をして俺はここに来た。来てしまった。
 いつの間にか後ろに、人外の男が立っている。夢で見た通りの光景を前に、何も言えないまま振り返った。長い髪が影を落とし、表情は読めない。ただ、目だけが赤い光をたたえて俺を捉えていた。

「血に溶けた記憶、吾を構成する物。口づけたから混ざってしまったか、忌まわしい」

 ああ、だって見覚えのある壁だった。良く知っている洞窟だった。その奥、ずっと奥。岩が多い彼の棲家で、一つだけ人為的に置かれている物があるなんて、知っていなければ気付かない。隠されていたのは、這って通るくらいなら十分な大きさの穴。それを抜ければ、開けた場所に出た。
 太陽の光が柔く届く、四方を崖に囲まれた花畑。赤い花。赤い花。赤い花。葉のない、花。花をかき分けて、あちこちに点在する歪な形の石。それ以外、見渡す限りに赤い花。彼の髪に編みこまれているのと、同じ花。
普通に呼吸をしているだけで、むせかえるような甘い香りが肺を満たしていく。彼の花の匂いに包まれていた時は落ち着くとさえ思っていたのに、今はただ、頭が痛い。心臓が五月蠅い。本能が、警鐘を鳴らしている。口の中がいやに乾いた。
 だって、だって、その下に埋まっているのは。花が生えているのは、地面なんかじゃない。

「……見てしまったのか、そうか」

 思わず後ずされば、何かが足にぶつかる。見たくないのに、直視してしまう。人間に似た生き物の、上半身だけの骨。そこから繋がる単純な骨格は、おそらく蛇の者。転がる無数の屍、黄色く変色し崩れかけた背骨とおぼしき物に絡みつき、その花たちは毒々しい赤を輝かせていた。ひくっ、と反射的に喉を鳴らした俺に何を思ったのか、異形の美丈夫は静かに目を伏せる。

「言っただろう、恋をしたから花が咲いたのだ」

 風が吹き、白く波打つ髪を持ち上げた。その下に夥しい数の花、赤、赤赤赤。生えている。彼からも、花が。編みこまれていた訳ではないのだ。ただ、そこに在っただけなのだ。無数に枝分かれする根を背に肩に長髪で覆い隠されていたありとあらゆる場所に埋め、褐色の皮膚をおぞましく隆起させ、アウネンゴデムに根付いたそれは、赤い花々は呪いのように咲きほこっている。

「嘘をついて吾を遠ざけてまで、ここに来たかったか。悪い子だ」

 人間を孕ませられると知っていたのは、前例があるからなのではないか?
 だとすれば、他の仲間がいてしかるべきではないか?
 あの夢の、「森の神」が竜尾の者ならつがいにされた人間たちはどこにいる?
 ――そしてこれらの存在を、俺から隠す理由は何だ? 俺に知られると何か不都合があるのではないか?
 ずっと引っかかっていた疑問と疑念が浮かんでは、消えた。答えは簡単だ。
地面に転がる屍、赤い花の中にぽつりと立っている沢山の石。墓石。竜尾もつがいも、皆、死んでいる。誰も、いない。

「……最初に嘘をついたのは、隠し事をしてたのは、アウネさん」
「それもそうだ」

 彼は口の端を持ち上げ眉根を寄せ、どこか苦しそうに笑った。肯定されて、しまった。
 全部思い過ごしだって言ってほしかった。自分にそう言い切れる確信が欲しかった。信じさせてほしかった。あんなに優しいのに、あんなに良くしてくれるのに、一緒にいて楽しいのに、触れ合えて嬉しいのに。何をしていても心のどこかで疑い続けるのは、嫌だった。だから足が痛いと嘘をついて、薬草を採りに行ってもらって。彼のいないうちに全部、確かめるつもりだった。垣間見た誰かの夢、おそらく目の前の男の記憶を辿れば何か分かるかもしれないと。

「吾等は人間を騙してつがいにし、全てを奪ってきた。思い出も、命すらも。攫った女を孕ませた。新しく生まれた子は母の血肉を喰らった。吾等は神などではない。ただの生き物だ。繁殖するためには雌がいる。けれど一族には雄しか生まれない。奪わねば種を存続できない」

 アウネンゴデムは抑揚のない声で畳み掛ける。赤い花が、彼らの屍が揺れている。

「ぬしの記憶を消したのも吾だ、その方が都合が良かった。何も知らぬ、吾しか頼る者のない、そんな存在ならきっと逃げ出さないだろう、吾等は皆そうしてきた」

 彼は自分の首元に咲く花を乱暴にむしり、花弁を一枚噛んだ。しゅるり、音を立てて近づいてくる。

「言っただろう、恋をしたから咲いたのだ。吾の血を吸い上げて、ぬしを手に入れるための毒が!」

 初めて聞く怒声が鼓膜を激しく打った。いつの間にか鼻先にあった顔。

「だがぬしはもう要らぬ。子を孕めぬ男など。全てを暴こうとする者など。次は静かで愚かな乙女を攫ってこよう」

 言いたいことがあったのに、声を出すよりも早く口づけられる。左腕できつく抱きしめられ、後ろに回された右手に頭を固定される。
 しばらく唇を押し付けられた後、ちゅ、と粘着質な音を立てて舌が入ってきた。二又に分かれた先端に唾液で湿った花弁を乗せて、それを口腔に擦り付けるように動く。何故、俺は抵抗しないのだろう。息が苦しい。頭の後ろに回された手のひらの震えを感じる。

「〜〜ッ!」

 突然、ガン、と頭を固いもので殴られたような衝撃が走った。
 頭が割れる。記憶が濁流のように唸りをあげ、視界が点滅、する。思い出す。全て。すべて。
 俺は、男で、十七歳で、孤児で、一つ下の妹がいて、彼女の結婚が決まって、逃げるように森の麓に移り住んで、怖くて、結婚式、そうだ結婚式だ、あの日、あの日、異形の男があらわれて。
 そして俺の名前は。俺の、名前は。

「……さらばだ、森の賢者。ぬしはもう要らぬ。不要である」

 脳が焼き切れるような感覚。意識を保っているのがやっとで、立つことすらもままならず、身体の操作権を手放した。重力に引かれ、地面が迫る。ああでもこんな状態でも一つ、分かったことがある。
 アウネさんは嘘をつくのが下手だ。心にもないことを言うのが、壊滅的に下手だ。だって、だって、そんなに泣きそうな、苦しそうな顔をして。置いていかれた子供みたいな目をして。
 どさり。遠く、何か重い物が落ちた音。意識が暗転する。




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