硝子同盟

楽園に薔薇はいらない


回想。
(薔薇の話。)

薔薇は嫌いだ。あの輝かしい美しさが、昔から。
古来より人を惑わせてきた魔性の美にして、アフロディーテの愛した愛の象徴。触れれば棘で指をつついて追い返そうとし、それでも引かずに摘み取ろうとする者には容赦なく牙を剥く。美しいからこそ身につけた自衛の術はえらく鋭利だ。
人を狂わせるような香りの甘やかさが鼻腔を悪戯に刺激して、近づくだけでも嫌悪感が湧いてくる。
おかげで私は真っ赤なあの花で染め上げられてしまったかのような自分の両目を愛せない。人と違うことを嫌がる子供染みた頭の廻り方かもしれない。だとしても明確な理由が増えたというだけで、この嫌悪は本物だ。個性による差はあれど純和人がほとんどの周囲の子は大抵、黒や茶の色の瞳を持っている。対して私の赤い両眼は、耳障りの良い薔薇色なんて呼称を捨てればただの血の色だ。他の人間たちの群れに加わったとき、もう少しだけすんなりと馴染んでくれる色を遺伝として引き継ぎたかったと、捨てきれない血筋を幾度も呪う。
生物的な、生き続けるための拒否反応にしては、感情を伴った薔薇へのそれは些か強すぎるような気もするけれど。とにもかくにも私は薔薇が嫌いなのだ。

***

――嗚呼、暑い。
移り行く季節の変動を、朝と夕に使う通学路はいっそ迷惑なほどに身に叩きつけ、伝えてくれる。いつも通り言葉がたまにしか零れ落ちない穏やかな時間の中で、私はこめかみから滑り落ちる汗を拭った。迫りくる太陽を遮る長い前髪が顔と髪の毛の隙間に熱を溜め込んでいるのかもしれない。
あの花と、あるいはクレヨンで描いたお日様と同じ赤で、だというのに特別陽光に弱い、私の目。特別、そう“特別”。弱いのはこの目に限った話じゃない。薄く骨と最低限の肉を覆うだけの皮膚も、焦がされ続けるのをとても嫌がるものだから、溶けてしまいそうどころじゃない。燃やされて灰になって、そのまま崩れてしまいそうだ。
暑……と唇同士の隙間から零しかけた時、頬を打った風をいつになく涼やかに感じた。
はっ、として隣を見る。

「轟、もしかして個性、」
「隣でそんなにぐったりされちゃあな。手も、繋ぐか?」
「ん……そうする。ありがとう」

左の手が冷たいぬくもりに包まれる。隙間ないように密着して、その上ぎゅっと握り合う。
ぼそ、と私は言う、「……一家に一台轟焦凍だ」と。多分轟には聞こえていなかったはずだ。
ふ、とそのとき、何か小さな存在を視界の隅に知覚した。視線を少しそちらへずらすと、すぐに。植わっているラベンダーの中に影を見つけた。
猫、である。
毛流れの揃っていない薄汚れた体毛から飼い猫ではないことはすぐに理解できた。淡い紫のラベンダーたちの中に身を隠すように寝転んでいる猫は、居眠りをしているようにも見受けられるが、呼吸に伴う少々の運動はあるはずだ。だというのに腹などの部位が微塵も膨らんだりへこんだりを繰り返していないことがただ気がかりだった。野良猫をわざわざ意識に捉えたのは、幸いヒーローを夢見る者として、慈愛の気持ちは人より少しだけ多く神様から頂いていたようだからだろう。可哀相に、と。小さく呟いたのが先か、気持ちが生まれたのが先か、同情が胸中に浮かんでいた。
思わず立ち止まると、手を繋いでいる轟も必然的に引き留められる形となり、どうした、と声がかかる。

「猫が、」
「猫……?」

目に付きやすいはずの道端の、ラベンダーが作り上げてしまった死角で。呼吸を諦め、心臓が封じられ、そうして魂を手放してしまった。境界線をとうに飛び越えてしまっている、花達に抱かれる猫だったそれ。自力で瞳を開いてすらくれない可哀相な子の、目の色さえ私は知れない。
ゆら、と轟の影が揺らめいた。

「……轟?」

***

「見てて気分いいものじゃないよね。ごめんね」

いや……、と彼は微かに言う。
これ以上はいけない、と感じ取った私のあの場から――あの猫から、冷たい轟の腕を引っ張り引き離すという行動は恐らく出来ることの範囲の中で言えば最善だった。

「よかったのか。置いて来ちまったけど」
「後で役所のコールセンターに連絡入れておくよ」

互いに先ほどの出来事のことを言いながら、何を、と主語を明確に言葉に表さないのは彼も私も同じだった。
死に、耐性が無いのだと思う。年齢を考えればあるわけがない。虫を潰すくらいならなんでもないような顔でやってのけるし、ちょっとした潔癖症に近いようだが。
彼にとって、死は非日常なのではないか。
それはエンデヴァーという大人にとって都合の良いように切り取られた無菌世界以外をほとんど知らないが故の無垢。肉体をいくら鍛えられても、心は父親の目と手の届く範囲内で守られて育てられてきた轟は、美しいものだけを与えられて生きてきたのだ。彼は私とは違う。綺麗な双眸に相応しい綺麗なものじゃないと映ることさえ許されない。
傷付く人々を救うのがヒーローなら、傷付いた果てに救われずどうしようもない結末を――それも目も当てられない程の痛ましい姿で――迎える人の最期に直面する、そんな日もいつか来る。漠然と浮かぶ、だけどはっきりと理解している、そんな完全な喜劇に成りきれない己の未来に恐怖している。

「……そういや確か、猫にラベンダーは毒なんだってな」

誤って食べてしまったのか、香りに鼻を触れさせてしまっただけでああなってしまったのか。死体に直接問う術はない。あの子たちも、花が苦手なのね。私と同じだ。あの憎い薔薇が私を殺めてしまうのなんてきっと容易い。


2017/07/16
心の方は守られて育っているかもしれない、だとしたら相当繊細かもしれない、と思ったお話でした。ラベンダーにはそこまでの即効性はなかったはずですが、危険なのは本当です。

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