硝子同盟

世界はいつだって操られている


回想2。
(出会うお話。)

乾き切った喉が血を渇望していた。
人生始まって以来、最大の危機と言っても差し支えない程、激しい欲求は我が身を焼く。
血が欲しい、血が飲みたい。よりによって外で、学校で。
例えば誰かが怪我をしてしまった時なんかに、滴る血液を見ておいしそうと食欲を煽られてしまうことは何度だってあったけれど、その時だってその程度。堪える事はできていた。猛烈な吸血欲求に苛まれたことなんて、覚えのない幼い頃を除外すれば中学にあがってからの、つまるところ今のこの一回だけ。
高速回転する脳との神経をパニックがうまいこと遮断してしまっている。
呼吸が荒い。視界がふらつく。意識は朦朧。嫌な動悸が肋骨を叩きつけている。
無関係の生徒に襲い掛かってしまう訳にはいかない。どうしよう、どうしよう、とほとんど吐息だけの掠れ声で繰り返しながらも、ふらふらとだが、確実に私の足は人気のない場所を目指していた。
色の識別がうまくできない。だが灰色に作られる景色と、そこに住む黒の学ランと黒のセーラー服の人達の間をよろよろと縫って進むには気にならなかった。もしかすれば昔からこんなモノクロームの世界に住んでいたのかもしれないとさえ、思う。
フィクションを鵜呑みにし、トマトジュースで誤魔化し続けてきた舌ももうここまでくれば騙されてなどくれないだろう。いくらレバーやサプリメントから鉄分を摂取することを心掛けて生きているとはいえ、成分の話ではなく潜在的な欲求だ。そんな野性にも近いものを半分以上気の持ちようだけで押さえつけていられた私は、吸血鬼とは云うが、所詮はそれとよく似た特性を個性として授かった人で、身体のベースは人間なのだと再認識した。耳障り良く言うならば幻想小説におけるハーフ・ヴァンパイア、だけど実際のところは吸血鬼もどき。もどきならもどきらしく、これくらい理性の鎖で縛り付けておけるはずなんだ。
零れる息が次第に獣のような荒々しさを帯びていく。
其の時だった。
大丈夫か、と。そんな言葉が降りてきた。
だれだ、わからない。ただそこには髪の短い少年がいた。
引き離すため、繕う嘘も見当たらなかった。私は「ほっといてください」と呼吸の隙間に細く言う。
離れて、何をしてしまうかわからない。願いはあるのに言葉が出ない。人の眼から離れなければと後退り、空き教室へと逃げ入る。

「ほっとけるわけねえだろう――」

一歩を、踏み込まれて。短髪の人の右手が差し出された。
突如。ふっ、と。
意識に一瞬、霧がかかった。
ぶつっ、と私の口内で音を立てて何かが爆ぜた。じんわりと鉄の味が舌に乗る。特有の犬歯が食いちぎったのは皮膚と、その下の血管だった。
頭の廻り方が夢を見ている時のように不自然に緩やかだ。
本能任せに無我夢中で血を吸い上げている自分はどれほど醜いか。考えられる意識の空きはあるようなのに、吸血鬼としての私は馬鹿みたいに喜々としている。それも至福のものとして。
色の判別すらままならなかった視界が徐々に色づいていく。その中で私が噛み付いた少年は熱くなっていた両目が痛んでしまうほどに、鮮やかな――視覚に脳に記憶に鮮烈に刻まれた髪色。
嗚呼、と状況理解と事の不味さが濁流の如く押し寄せる。自衛の堤防は決壊寸前。
この人は。フレイムヒーロー・エンデヴァーを父に持つ、とんでもない強さの個性持ちの雄英志望の生徒……とクラスの違う私には人並み程度の情報しかもたらされてはいないけど。
はっ、と息吹くと歯と牙から解放された轟焦凍の指が口から抜かれる。閉じ忘れた自分の唇から、飲み込み損ねた血液か、唾液か、はたまたそれらが混じり合ったものなのか、正体のわからない液体が滴り落ちる。轟焦凍の指にはぽっかりと、紙に鉛筆でも刺して作ったような穴が開いており、そこからはまだ、ぼとぼと、だらだらと出血が続いていた。

「お前今血ぃ、」
「ごめんなさい……」
「血ぃ飲ん」
「ごめんなさい!」
「血飲んで」
「ごめんなさい!」
「血。」
「ごめんなさい!!」
「……聞く気あるか?」
「……ごめんなさい」
「顔色、さっきより良くなってねえか、あんた」
「おかげさまで元気、です。わたし個性が『吸血鬼』で、そのせいで迷惑かけちゃって、ごめんなさい。お詫びにもならないけど、止血くらいはしたい。手貸して欲しい」
「……? あぁ」

今度は先ほどよりも警戒意識度を吊り上げて轟焦凍は私に自身の手を任せた。手首を片手で掴んで噛み付いてしまった指に再び唇を寄せる。既に溢れ出てしまっていた余計な血をれろ、と舐めとり、それからまた傷口の方に舌を這わせた。すれば。牙の跡だけはあるものの傷は綺麗さっぱり存在を消していた。
気に入った血液の味の持ち主を、美味な血の保管道具として手元に置いておく為――そのための傷口を塞ぐチカラなのだそうだが、現代的な日常の細かなシーンで役立ちはする。現に今も、と言うとこれが日常のひとかけらのようだが、軽度とはいえこんな房総が日々繰り返されていいはずもない。それだけに少々の落胆を呼んだ。
確かに止血のなされた指を角度を変えて眺めた轟焦凍が軽く驚く。だが少しすると彼は美しい双眸を切なげに光らせた。

「俺も吸血鬼になっちまうのか……?」

首を振った。私はハーフ・ヴァンパイアとしては人間の遺伝子の方が濃いらしく、繁殖を兼ねる吸血だけで生きている訳ではない。繁殖のための行為自体、普通に、普通の人間と同じ事を、する。
「そう、なのか」と静かに言う彼もきっと安心してくれたのだと思う。

「うまいのか、血って」
「え、うーん、水飲むとき一々おいしいって思うの? でも若い男の子のはおいしいかも、比較的。動くし食べるから」

何でこんなことをこの人は訊くのだろう。純粋な好奇心から生まれた質問としては無意義だが、恵まれた人としか認識していなかった少年の年相応の部分が垣間見えたのは良かったのかもしれないと、思わないでも、ない、かも。


2017/07/12

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