硝子同盟

目が醒めたら忘れていてね


そういえば、寮の自室の窓の形に切り取られた空には月が浮かんでいた。ほんのわずかにだけ欠けた端の方を見るに、満ちるまでそう時間は必要ないだろう。
自分一人、しかし床に落ちる影は無人の時と同様に一つたりとも見当たらない。ひっそりと、影を持たず影に忍ぶ自分が今起こしている行動はとても物語的だ。青春小説の寮生活の章によくある無断で異性の部屋に忍び込む夜這い未遂行為と、それからもう一つ、ホラーテイストな御伽噺にも重なる。
まるで、そう、ヴァンパイア。蝙蝠に姿を変え、あの人間然とした魔物が御屋敷の窓まで辿り着くと、元の姿に身を戻す。夜風にマントを翻し、月光を浴びて反射光を乗せた窓から中を覗き込むと蒼い夜陰の中に美女の寝顔が伺えて。無音の中に今にもその美しい女の人の規則的な吐息が聞こえてきそうな、そんなワンシーン。だけどヴァンパイアにとって麗人も醜い人もどちらともつかない人もみな同じ。肉体は主食である血液を清潔に保管しておくための器に過ぎず、中身にしか興味を示さない野性的な魔物に価値など見出せない。
自動ドアなんてない時代、だけど窓はヴァンパイアを迎え入れるように勝手に開いて招き入れてくれる。そうして青白く照らし出される床を歩み、予定調和を辿るが如くヴァンパイアは美女の首筋に牙を立てるのだ。
とはいえ、そんな風に軽々と不法侵入を果たせてしまうのはヴァンパイアの持つ異能やその類のものではなく、便利のようで不便な特権ともいうべきもの。真実は、ヴァンパイアが、他でもない家主自身によって屋敷への入室許可を得ているから――家主から招かれているからこその、侵入である。
――私の個性は、『吸血鬼』。
お詫びの言葉を胸の中で紡ぎ上げ、買ったばかりのグラスを包装されたままの状態で携えて。男子塔の廊下、轟の部屋を眼前に仁王立ちをしている。
招かねざる吸血鬼は、入れない。何があっても。それは今となっては特権とも呼べない恐ろしく不便な、この異端の個性を有するものに皆等しく与えられた絶対なのだ。その類義語を、習性。
吸血鬼の私を前に――扉は、開く。
刹那、私の見る世界はがらりと一変し、感じ取って来たものが壊れると共に今現在信じているものまでもが変貌を遂げた。目まぐるしい変化に戸惑いを隠せない。そればかりか脳が真っ白に染まり上がる。その中で、招かれているらしいという、たったそれだけの事実だけが都合よく頭に舞い込んできた。
徐々に広がっていく扉の隙間から、和室の一片が覗く。ついに一室だけなぜか滅茶苦茶構造が異なっている特異な空間が目の前に開けた。

「おい、誰だ。……なまえ……?」
「う、うん。何かごめんなさい……?」

轟のそれはとても正常な反応だと思う。

「轟、この前に私が割っ――」

突如、がちゃ、と。至近距離でのドアの開閉音が鼓膜に飛びついた。隣の部屋のようだからこちらに歩んでこない限りは扉に阻まれて視界に入ってしまうことはないだろうけれど、もしもこっちに来てしまったら……。まずい、非常にまずい、状況的に夜這い未遂と見紛われても文句を言えない、洒落にならない。反射的に口を閉ざしたのは正解だった。
多分彼も咄嗟だったのだと思う。突然腕を掴まれると室内に引き入れられる。外では少しも感じなかった畳の香りが鼻腔にさわる。
私の背後で閉じる、轟の部屋のドア。短くも重々しいその音が狭い空間には嫌に響くためにびりと緊張感が背筋を駆ける。近しくも離れた互いの間合いを埋めるように幾つもの心音が溢れて止まらない。棺桶で眠る怪物の性なのか、狭い場所や閉鎖的な空間は大好物で本能的に安心感を得られるはずなのに今どうだ、全然違う。全身から顔に集まりその一点だけを熱くさせる、少々人から頂いたり、奪った血液達。背中を預けている扉を挟んだ外、鳴っているはずの足音に耳をそば立てようにも鼓膜が追いつきそうもない。なのに都合のいい聴覚は轟の嘆息をクリアに拾うものだから、有難迷惑極まりない。
傾けた耳に遠のいていく足音が入れば、一度神経が緩むもまたすぐに心臓が思い出したかのように大きな音を鳴らすことを再開した。
距離が正常になると心拍数は失速し始めた。

「ピッキング出来たのか、お前……」
「ち、違うよ。個性だよ」

妙な特性で、住人に許可さえ貰えれば自由に出入り可能だけれど、逆に許可がないと駄目なんだよ。

「これ、前にグラス割っちゃったから、代わりの渡しに来たの」
「別にいいっつっただろ」
「でも私がすっきりしない」

ぐぐ、と軽く押し付けているつもりなのだが押し返そうとしている轟は押し返せていない。『吸血鬼』の個性による能力の一つとして、“少々”力持ちというものがある――車一台程度であれば軽々と抱き上げられる腕力を“少々”としても間違いではないかどうかは、各自のご判断にお任せいたします――。いくら轟の身体能力が抜きんでているとはいっても、私が少女であるとしても、怪力無双の吸血鬼様にかかれば小さな食器一つ押し付けることなど容易い。

「も、戻る」
「あぁ、気ぃ付けろよ」

こっくりをした轟が少しだけ作ってくれた扉の隙間から逃げ出すようにすり抜ける。来た時と同じく、静けさに煽られる緊張感があるのは自分が本来ここにいるべきではない存在であるという自覚があるからだろうか。背徳感が身を焦がしてやまない。
微音に振り返る。閉じかけた扉がまた隙間を広げており、そこから顔の半分ほどを覗かせた轟が、

「――なまえ。ありがとな」

そう一言だけを残して。今度こそ閉まる。
まばたきを二度、三度。
ぐい、と引き入れられた時に掴まれた腕にぬくもりが蘇った。


2017/07/09

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