イエスマンの命日

世界の産ぶ声


嗚呼、馬鹿だなというのが正直な感想で。
全校生徒の視線の集中点、講演台。そこに上り、予め決められていたはずの台詞をなぞり読む事を捨て、台本からの脱線を選んだ竹林孝太郎はその演説で本校舎の人間たちをぽかんと間抜け面に変えさせた。理事長室からくすねてきたという表彰の飾りを叩き割った彼が自ら砕いたのは、飾りなんてものではない。他でもない己の輝かしい未来。それを掴むためのチャンスである。
馬鹿だな。本当に。なんて馬鹿なのだろう。
この世に存在する物は絶対数に限りがある。過去に、そして現在に。大人子供を問わず生まれた争いの数々は限りあるそれらを手中に収めるために巻き起こって来た。チャンスにしても同じことが言えるのかもしれない。竹林が手放したそれは、A組の座席という形でこうして私の元までやって来た。彼とは違い聡明かつ打算的な私は迷わず、躊躇わずそれをもぎ取るようにして掴んだ。
ほら、彼は馬鹿で、反対に私はなんにも間違ってなどいないんだ、って。そう思うのに、私の視線は自分の上靴の爪先辺りに注がれっぱなしで、胸を張る事すらできやしない。
そんな私をもしかすれば誰かが見ていたかもしれない。仮に見られていたとして、その見ていた人物は私に何を思っただろうか。

***

違和。
違和、違和、違和、違和、違和。
見るもの、聞くもの、感じるもの、全部に覚えるのは違和感ばかりだ。
広々とした教室。並べられる机と椅子の間に設けられた感覚もやはり広くて。教室の隅々に至るまで徹底的に汚れを取り除かれ、清潔さが保たれている。快適に整えられた空調、空気を揺らして伝わる冷風が半袖から剥き出しの腕を撫でつける度、ぞわぞわとしたものが私の肌を這って行く。
嫌だな。とても。そう思ってしまうのが一体どうしてなのかはわからないが、これがとても大変な事態であることだけはすぐに理解できた。
異常の沼の中に中途半端に片足を突っ込んでしまった状態で再び、それも突如的に日常に引き戻されてもぬかるみに感覚を蝕まれた足裏にはそれまでの地面は固すぎる。かといって泥沼のぐちゃぐちゃどろどろとしたあの嫌な感覚に慣れきったわけではないのだから、またE組送りにされても困るだけ。
結果的に出来上がったのは、どちらにも適応不可能な不便な身体である。
黒板に殴り書かれる膨大な量の情報を必死に漏らさぬよう書き写す、鬼のような空間から解放されるたった十分の短い休息は学校内ほぼ唯一のオアシスといっていい。

「瑞希」
「え、わっ、浅野君」
「何をぼうっとしているんだ。E組気分が抜けずにいるんじゃないだろうな」
「そういうわけじゃ、」

久しぶりに見る浅野君の相変わらず整った顔にすっと描かれた柳眉がほんの僅かながらぴく、と動いたもので、私はそういうわけじゃないと言いたかったのだが慌てて途中でそれを口内に引っ込める。次いで口にした「ごめんなさい」という自分の否を認め、彼を肯定する言葉が私ができる事の中で最も正解に近い。選択肢内から選ぶ間でもない、それは決まりきった返答であるはずなのに何故考えて答えを探そうとし、そのうえ誤りを犯してしまったのだろう。
どうしよう。理由なく湧き上がる不安を一つ、数える。
騒ぐ心はそれでは静まってなどくれなかった。

***

「……変わったな、瑞稀」

当たり前にやって来た放課後。残っているのは私と彼だけの教室でなんの脈略もなく感想のようなものをもたらされた。何を以てして彼がそういったのかは理解できなかったが、私はとりあえず「そう?」と問う。すれば、「あぁ」と返された。

「E組と関わってからか。余計な事を覚えたな」

ずっと変わらず僕の忠犬でいればよかったのだ、と浅野君の眼は云っている。
これまでと変わらず彼の犬であり、生徒会のぱしりでもあるとは、特に後者に関しては思ってはいないが、しかしどちらでも無くなってしまったとは思っていない。
本当に、覚えてきたのも考えるようになったのも余計な事ばかりで自分で自分に困ってしまう。

「でも、私は!!」

大きな、飛び出してしまった自分の尖った声色は、喉が破裂したかのような。

「私は……、私だって……」
「何だ? 言うならはっきり言え、瑞稀」
「……私だって……浅野君の犬でいられた方がずっと楽だったよ」

彼の下で、彼の指示をなぞるように動いていさえすれば――能力の問題で成功もほとんど無かったが――失敗はまずありえない。何か間違いを犯してしまっても、彼が私を罵ることはあっても、元より私には微塵も期待など寄せてはいないのだから想定の範囲内で、本気で怒ることは無い。

「竹林……くん、のことショックだった?」
「そんなわけないだろう。あんな眼鏡がいてもいなくても今の僕には何の影響もない。ただ彼を引き抜くことで奴らに精神的なダメージを与えることに繋がると思った、それだけだ」

かっこよくて綺麗で賢い、憧憬としてしか考えられない遥か上の人が私の中での浅野君だったというのに、今目の前にいる彼はただ強がっているだけの負けず嫌いな拗ねた男の子にしか見えなくて。素敵な形容詞ばかりが並ぶイメージの中にぴこんっとかわいらしいという新たなイメージが瞬間生まれた。たまらず、私は腕を持ち上げていた。素直に負けを惜しめない不器用な男の子の頭に触れようとした手だが、しかし身長差から頭部にまでは届かず耳の辺りに少しだけ触れ、次の瞬間には浅野君の手によって振り払われてしまう。

「おい、何を」
「触ってない。」

食い気味になりながら、芯を通した言葉の語気を強めて私は言う。

「数学的には物と物は接し合ってない。絶対に触れ合わないの、知ってるでしょ? だから、触ってないよ」

けろっ、と屁理屈を吐きながらどう、理知的でしょう? と期待を込めた眼差しで浅野君を見上げる。すると、はぁー…………、と彼にしては珍しい大雑把な嘆息が聞こえてきた。

***

「浅野君と同じ苗字になれたら、名乗るのが嬉しくなるね。それだけで幸せだ――私」

小さくて大きくてささやかで傲慢なたった一つの望み、願い。
あなたの苗字が、欲しいです。

「私は浅野君や浅野君の家の習わしに従うだけだから、躊躇なく使って良くなるよ。嫁ってそういう意味でしょう」

訂正、苗字を等しく揃える事であなたから離れず、あなたを離さずにいたいのです。


2017/05/14

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