イエスマンの命日

春の来ない庭でいつまでも君を探してる


浅野学秀はどんな人かと問われれば多くの生徒が才色兼備の秀才と答えるだろう。ぞっと背筋が粟立ってしまうほどに綺麗な笑顔の裏側の、どす黒い色を感じ取りながらもきっと皆口を揃えて。もしも、もしも仮に彼に逆らってしまえば、自分がどうなってしまうか誰にもわからないから。私や同学年の生徒達とまるで変わらない、この世に生を受けてからたった14年と少しの少年なのに。否、変わらないからこそこの差にきっと誰もが驚き、戦く。私達が沢山の時間を棒に振り浪費する間に彼は消費、あるいはそれ以上の生産的な時を積み重ねてきたのだ。
些か裏と表の差が激し過ぎるとは思うけれど、私はそれが悪い事だとは思わない。裏表がない、というのは世間一般的には美徳なのかもしれないが。
平面でも立体でも、三角形であっても完全な球体であっても、物体が物体としてそこに存在し続ける限り、人間がそれを見つめ続ける限りは見えない裏側は常に表に付きまとう。もしも裏が存在しないというのなら表も当然存在しない。私が思うに、それは実在しない、最初から存在すらしていなかったということだ。
実際、単なる善人で自分を終えてしまえばそれは凡人に留まるしかなく、周囲の眼には止まらないのだからある方面から見れば存在していないこととそれは同義に成り得る。
才と美で人間離れをしていながら、それでいてとてつもなく人間臭い、裏と表を併せ持つ浅野君。彼の人間性があるから私は彼がちゃんとここにいるということを確かめられる。透明とも違う、裏表のない無存在に等しい魂などではない、と。当たり前の事が本当に当たり前なのかを疑ってしまう捻くれた頭を持って生まれてしまった私は、揺るがない“当然”を見つけられると嬉しくて堪らないのだ。
無条件に信じられる浅野君は、まさしく私にとっての神様に違いない。
神に等しい存在である浅野君。だけど伝説や信仰の中で生きるふわっとした神々よりも、彼の方がずっと信じていられる気がする。少なくとも、私の中では。


2017/05/13

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