イエスマンの命日

人間の65%は身勝手で出来ています


起立、礼、の極々有り触れた掛け声に次いで両眼に飛びつく生徒全員が教師に向け銃を構えるという異様な光景が、私の眼を一杯に開かせて閉ざす事を許してくれない。一つの銃声が叫び声を轟かせると、刹那、それを合図とし教室中の銃口という銃口から弾が飛び出した。自分の戦慄き力の入らない両手に握られだらりとぶら下がっている真新しい対先生用拳銃の、夢として落ち着けるには些か現実感の強すぎる感覚が熱を逃がしつつある指先の神経に突き刺さる。絶え間なく打ち出され炸裂し鼓膜を支配し続ける発砲音、肌を焦がす明らかな殺意と日常離れした緊張感。空間を形作る異様さの全てが此処が本当に暗殺教室であることを物語、脳に直接刻み込むようにして知らしめる。
先生は、敵。あの浮世離れした丸さを持つ殺せんせーは、殺しの標的。
暗殺教室。まさしくそれは非日常の代名詞。

***

E組生活2日目にして一つわかったことがある。此処は、このクラスは自主性を重んじる場所なのだ、と。
いっそ凶悪とすら思える、室内に渦巻く甘い香りに狂わされてしまった私の鼻は室外のひんやりと冷たく何にも汚されていない空気を渇望していた。自主性に溢れた殺しの実行をする女子だらけの放課後の空間を居心地悪く思ってしまうのは、甘ったるい香りばかりではないだろうけど。
自ら選択をして、一つの大きな目標に向けて邁進する彼らの姿勢が私には眩しかったのだ。
いい大学へ進み、いい会社で働け、と親による綿密な将来設計のもと、その過程を築くべく、そして浅野君に恨まれてしまわないようにと、私はこの名門椚ヶ丘に座している。私の進路も夢も何もかも、元より大人の手によって一切の狂いなく完成され尽くしていて、私はその決まりきった道をよそ見せずにただ真っ直ぐ歩んでいくだけの存在に過ぎない。所詮は親を満足させるための道具でしかないのだ、私という無力極まりない子供なんて。
不満を胸中でくすぶらせながら、それでいて支配される人生に今まで目立つ抵抗を見せて来なかったものは流されている方がずっと楽だからに他ならない。いつ失敗をするかもわからない恐怖を背負い、自分で物事を見極め、一つ一つ答えを選び取って進んで行くのは引け腰になってしまうほど恐ろしい事だから。例え最初から結末まで決めつけられてしまっていたとしても、大人に望まれる通りの結果を残せれば愛される資格が無条件に得られるのだ。そんな風に生き延びてきた自分は反吐が出そうなくらいに気持ち悪い人間で、私は自身がこの世で一番憎くて嫌いで、だけど我儘を連ねる子供じみた面が己をばっさりと否定することを許さない。自分は駄目な人間だとわかっていながら目を逸らし、正面から認めてしまわないよう素通りをする。

「岬さん、薄力粉奮っておいてくれないかな?」

私の、思考に囚われていた意識を声音で開いて、脳に言葉を届けてきたのは片岡メグという学級委員の少女だった。ストレートの長髪を邪魔にならないよう頭の低い位置でバレッタで纏めた、長身の彼女は佇まいからして真面目で律儀で几帳面な学級委員“っぽい”。今までA組の生徒だった私が教室で孤立してしまわないよう、気遣ってくれる世話焼きなところも、“らしく”て、“っぽい”部分の一つだ。

「え、私?」

いい子、なのだろう。だがその性格で万人に受け入れられるのと、私個人の信頼を得られるのかどうかは別問題で、彼女のような人間は私にとっての天敵であり蔑む相手であるということは彼女一人の力では覆しようがない。

「頼んでいい?」
「え、あー……、まぁ、それくらいなら……?」

脳の不意を突いた襲撃は思考する間も与えてはくれず、結果、あまりよく考えずに御意を示してしまった。
アイシングカップケーキ。女子だけで貸し切った放課後の隔離校舎の一室で調理が始まる焼き菓子は、完成図を盗み見るとさすがは外国製、視覚から吐き気を呼び起こす着色料たっぷりの毒々しさで。健康に悪そうったらない。三十一の数字を関するアイスクリーム店の期間限定製品と同じか、それ以上に。
嫌だな。無理だな。こういうところ。こういう人たち。こういうものを作ろう、みんなでやったらきっと楽しいしおいしいよ、っていう、こういう空気も。ノリも。
――否、羅列するそれらの理由達は、後付けの言い訳でしかない。ただ嫌で、嫌いで、逃げ出してしまいたい、それだけなのに、それだけでは不十分な気がするからと、色々と余計な物をくっつけて話を大きくして、より嫌いになろうとしているだけ。
人間は、なにか新しい事を始めようとするのに何かと理由を欲しがるものだ。
周囲に倣ってE組虐めをしたことがない、訳ではない。それでも私は積極的にそれらを行ってきた人間たちのなかにも属してはいなかった。
強者と弱者が存在し、もしも両者の関係が良好とは言えなかったとしたら。強者たちの弱者たちへの当たりを大きく分けた場合、本当に力を振り翳し『支配する者』と、手を差し伸べる『協力的な者』の二つに綺麗にすっぱりと分かれるのだろうか。強者側といえど本当に強いのは上の方のごく限られた、それこそ一握りの人間で、あとはそれにおとなしく従うだけの、ともすれば弱者以上に己の道を選べない人間たちで構成される。
私は浅野君のような、五英傑のような絶対的な強者には成れない。ぎりぎりでも、人数合わせでも、強者側で在りたかったただの凡人だ。凡人の分際で群れの中で一人だけ目立ってしまわないように周りがしていることをひたすらに真似る、まるで雛鳥だ。
彼等へのあたりのつらさは私にとっての手段でしかない。だけど、ともすればそれは、善悪の判断がままならないということにもなり得て――心の底から見下しているかつての名目上の仲間たちの純粋な軽蔑よりもずっとずっと悪質なのではないだろうか。

***

暗殺は、失敗に終わったのだそうだ。
そりゃあそうだ、と理由も原因もわかったかのように何も知らない私は妙に冷静に納得をしてしまった。あの常人離れ、というより文字通り人間離れをしている先生ならどうとでも生徒たちの甘やかな刃をひらりひらりと躱し抜いて見せるのだろう、と。
デコレーション用のアラザンに小さく砕いた対先生用BB弾紛れ込ませて、記事の中にもぎゅうぎゅうとBB弾を詰め込んだ特性の暗殺用アイシングカップケーキだったが、不慣れな彼女たちはどうやらケーキ生地を余計に用意してしまったようで五つほど不殺カップケーキが出来上がった。世界一安全な賭け勝負であろうじゃんけんの末、意図せずカップケーキを持ち帰る権利を得た私は羨む声を浴びながら頂戴した。だが肝心の暗殺には参加することは無く、辺りを茜色と影の黒さが支配し始めるE組校舎の壁に凭れ掛かる格好で今こうして地にしゃがみこんでいる。
その時、至近距離に私は一つの影を知覚した。
足の代わりに見えたのはぬるぬると蠢く幾つもの触手だった。

「おや、岬さんの手に持っているそれはもしやカップケーキではありませんか?」
「えっ……と、はい。頑張りました。一応」
「先ほども女子の皆さんに貰ってしまいましてね、おいしかったのですが、なかなかに危険なカップケーキで……ハッ、もしや岬さんあなたのそれももしや先生に!?」
「そんな顔しなくても上げますよ。元々先生にだし。というかあの、何か入っているとは、」

思わないんですか。言い切る前に作りたての焼き菓子は、ちょうど数か月前に7割以上を蒸発させた三日月みたいな裂け目型の口に放り込まれていた。

「何も混ざってなどいませんよ。岬さん、あなたのものには。それくらい、匂いですぐにわかってしまいます」
「あぁ、わかってたんですか、最初っから」
「他の皆さんがくれたケーキの甘い匂いに何か妙な匂いも交じっていましたからねぇ。あれでは先生の鼻は誤魔化せやしませんよ」

わかっていて、余裕を見せつけるためにあえて策略に乗り、嵌まり、最後の最後は逃れてしまう。デフォルト設定されたにたにたの表情の裏側にどんな感情が眠っているのかと思っていたが、奥に隠されているものなど本当は無くってこの先生は表面と同じように無い面でももしかしたら私達を、

「――先生は暗殺対象である前に先生ですから」

笑っているのだろうか、と私が思うよりも前だった。マッハの速度を自慢げに振り翳す殺せんせーの手にかかれば言葉で私の思考を追い抜くのは容易いのだろう。

「すごいですね。E組の人達。今回のは毒盛り作戦だったけど、ユニークな暗殺を毎日たくさん仕掛けてる」
「えぇ、ですから私も退屈せずにいられるんですよ。楽しみです」

暗殺をされるのが。
意味の解らない言葉も、暗殺教室という非日常の中で発せられればあっという間に溶け込んで当然のように脳が処理をしてしまう。
すごく、すごく、彼らはとても。
自分の発想を掘り下げて、計画を綿密に立て考えて、実行に移すための道具や環境を揃え、ターゲットにその真意を悟られぬよう陰で準備を進めていく。敷かれたレールの上をなぞるにようにして進んで行く事しか覚えて来なかった私にとって、彼等E組生徒の自主性はとても眩しいもので――その眩しさが、鬱陶しくて。目障りで仕方が無かった。
自分には到底真似できない。学校側に見放された人間の集いの癖に、私にはできない事を容易くやって除ける。そんなE組が、嫌だ。


2017/05/08

- ナノ -