イエスマンの命日

僕はもう呼吸の仕方さえ思い出せない


意味が解らなかった。理解が追いつかなかった。受け入れたくなかった。ただ馬鹿みたいに私はその場に立ち尽くすしかできなかった。
なんで、どうして私が。宙に投げられた疑問符がぼとりと落ちて転がりもしない。
A組のびりから二番目という喜ばしくはない順位が、みょうじなまえの名前の定位置であったはずだ。なのに。それなのに。

五英傑が、A組が、E組の前に敗れた。一学期期末テストの結果は、あれだけの大見得を切っておいて、と誰もが口を揃えてしまいたくなるような物。同じ教室に身を置く名義上の仲間達は賭けの戦利品として沖縄離島旅行を奪われた挙句、鼻で笑われ大層ご立腹のようだが、しかし室内で派手に渦を巻くブーイングの嵐すら私の視界には入らない。群れの惨敗より、己の、目先の問題の方が余程深刻であるからだ。
戦慄く拳に締め付けていると言った方がいいかもしれない握られ方をされ、一枚の通知書に皺が寄った。嗚呼、転級通知のたった四文字で奈落の底に突き落とされてしまったかのような絶望感にひれ伏すとは、人間はなんて脆い生き物なのだろう。
意味、わかんない。
冷静に思考を廻す反面で、現実を現実と認めずに夢だと思い込もうとするだなんて器用な真似をやって除けようとする。脳が、理解も情報処理も役割の何もかもを放棄する。
誰もが痛いくらいに知っている。言い渡されたE組行きは何があろうと覆せないことを。有無は紡がせない。反乱など、間違っても起こせない。たった今弱者と規定された一生徒の叫びなんて誰にも届かない。
視野の片隅で自分のものと同じ灰色のスカートが揺れた。

「なまえ、それ」
「え、あ……あぁ、うん。そう、なんだ。ははは……」

何が、そうなんだ、なのだろう。行くことになってしまったんだとでも伝える気だったのだろうか、私は。乾き切って震えっぱなしの声音は酷く哀れで自分が一番嫌いな自分だった。

「だ、大丈夫だよ。あっち行ってもうちらが友達なのは変わんないからさ。ずっとなまえの味方、だからさ?」

気休め程度にかけられた優しい言葉は本当にその場しのぎの気休めでしかなかった。
最後まで味方だと友達だと言ってくれていた子と、可笑しな事にその日から連絡がつかなくなった。どうやらブロックをかけられてしまったみたいだ。
当たり前だ、圧倒的強者が集う教室で、弱者認定を受けた私に居場所なんてものはもうないのだから。

***

人ひとりとの繋がりが直前で千切れてしまった状態でも、地球は自転を止めてなどくれないし、当然ながら夏休みという長期休暇も巡ってくるものだ。
所詮は表面上の友人で、自分はコミュニケーション能力の無いぼっちではないのですよと周囲にそれとなく知らしめるために利用していた都合の良い存在に過ぎない。それはきっと向こうだって同じことで、道徳の教科書がのたまうような素晴らしい友情であったならもっと心中複雑であっただろう。
人参の輪切りに臨んだところ、包丁は余程切れ味が悪くなってしまったのか、試しに摘んで持ち上げてみると繋がったままの様はまるで干し柿みたいな。宙ぶらりんの状態でずららっ、と揺れている。
自分の手が握る包丁に視線を落とすとぼろぼろで今にも砕けて散り去ってしまいそうな刃が痛々しく目に飛び込んできた。包丁は一生ものだ、とは母の言葉だ。あの人は現在のこの状態を見ても同じことを言えるのだろうか、思えるのだろうか。
母は、今日はいない。昼食を用意してくれる相手がいないというのは自ら勉強を切り上げ準備しなければ何も口にできないということで、詰まる所とてつもなく不便だ。所詮は勉強漬けの中学生、冷蔵庫の中身と相談をして献立を、なんて主婦みたいな真似は本当に真似しかできない。私に言わせれば料理アプリを見て作れるレシピが簡単なのではなく、作れる人間のレベルが高いのであって、自炊の二文字がまず頭に浮かぶ時点でもうある程度上の人間である。カップ麺すらないのか、うち。と一度棚の中身にがっかりをしないと動き出せないが言うのだから間違いない。
焼きそばを作ろうと台所に立ち、現在に至る。
刹那、衝撃の事実が雷の如く全身を真っ直ぐに撃ち抜いた。

「あ……、焼きそばにんじん入れないや……」

少なくとも、我が家では。

たった一人だけでいる室内に麺を啜る音だけを響かせていると電源を切り忘れていたらしい携帯端末が短音を鳴らした。『なまえに頼みたいことがある』というメッセージと共に表示された『浅野学秀』の氏名に、本当に電源オフじゃなくてよかったと心底の安堵を覚えた。だがすぐに入れ替わりに安堵は消えて疑問が沸き上がった。才色兼備の生徒会長直々の頼みとは、何だろう。
画面の向こう側で彼は自分の吹き出しに既読の文字が浮かぶのをまるで待っていたかのように、私がアプリを起動させて間もなく追加のメッセージを受信する。
文面は、『作文を頼めないか?』。
彼ほどの人が、本当に何故。ますます私は意味がわからなかった。


2017/04/13

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