02.事実は小説より奇なり


「菊早く早く!」

 バス停に着いた俐音はまだ数十メートル手前をぽつぽつと歩く菊を手招きする。
 肉がいいだのと不満がっていた割にはしゃいでいる彼女は珍しく歳相応だ。

「ほら! 後ろバス来たーっ!」

 まだまだ小さくしか見えないが菊の亀のような歩みをどうにかしようと焦らせる。

「バスのが先着いちゃう、このバス……なんか……あれ? ちょ、早っ!」

 猛スピードでやってきたバスは俐音の前で、ギュルルルルと大きな音を立てて止まった。
 急ブレーキをかけた証拠にアスファルトにタイヤ痕がついている。

 だが呆気にとられている俐音を余所に、何事も無かったようにバスのドアが開き、ふわりと冷気が顔に当たった。

 数秒間立ち尽くした後、まずいと判断した俐音はバスに乗り込んだ。

「すみません、連れがもう一人いるんで少し……」

 待ってもらえませんか。
 そんな俐音の言葉すら待たず無情にもドアは閉まった。
 
 あまりの性急さに反応など出来るわけもなく。

 ぷしゅうと音を立てたバスに驚いて後ろを振り返ると、ぎりぎりのところでバスに乗り込めなかった菊とガラス越しに目が合った。

「き……」

 止まるときが急なら発進もまたせっかち極まりない。

 タイヤが摩擦する音とともに走り出したバスは、手すりも持たずぼんやりと立っていた俐音が簡単に体勢を崩すほどのスピードを出していた。

「にぎゃあぁーっ!」

 飛ぶように後方に流され、ごろごろと転がる。

 最後部の座席にぶつかりそうになり咄嗟に頭を庇うように丸まった俐音だが、衝撃が来る前に何かに身体が引っかかって回転が止まった。

 後ろから数えて三番目の座席。
 そこに座っていた人が絶妙なタイミングで俐音の服の襟を引っ掴んでいたのだ。

 喉がしまって息が詰まったが、そのまま転がり続けていたよりはよっぽどましだった。

 まるで子猫が母猫に首を銜えられているような体勢のまま俐音はその人を見上げた。

「危なかったね」

 俐音を掴んだままにっこりと笑う女の子の名前は諏訪部倖。
 その隣には光城翔という男の子が座っていた。

 未だエンジンを唸らせて猛進するバスを見渡すと、一つ前の椅子にもう一人男がいるだけだった。

 俐音を入れてたったの四人。

 普通ではありえないこの状況において騒ぎ立てる事もせずに三人は随分と冷静だ。

「なんなのこのバス」

 倖達の後ろの席に座った俐音の問いに「分からない」と簡潔に答えたのは翔で、更に前にいる男、長尾真人は振り向こうともしなかった。

「私達も三人だったんだけど一人乗れなかったの。この人も」

 真人を指差す。
 彼は彼で一緒にいた人が置いてけぼりを食らったらしい。

 一体何がどうなっているんだろうか。

「つか運転手が悪いんじゃん!」
「運転手ね」

 立ち上がりかけた俐音に真人がそう言って鼻を鳴らす。
 癇に障る口調に不快を顕にするも気に留めた様子も無く、顎で前を見るように促した。

 少し身体をずらして何とか運転席を覗いてみると、そこにはいて当然の運転手の姿が見当たらない。

 独りでに動くハンドルに息を飲む俐音。残りの三人も自然ともう一度確認するように運転席を見た。

「あ、あ、悪霊退散ー!!」

 思わず大声で叫んだ。

「失礼な! アタシ善良な霊ですよ。ビフィズス菌もびっくりですよ」
「誰が悪玉菌と善玉菌の話をしたか!」

 染み付いてしまった癖でつい反射的にツッコミを入れた俐音は数秒後にはたと気付いた。

 今の幼い少女の声は前方からしなかっただろうか。

 しかしバスの中に女は俐音と倖しかいない。
 答えなど一つしか無いのに認めたくない俐音は幻聴だったかもしれないと現実から目を逸らす。

 しかしこの状況でそんな逃避が許されるはずがない。

「もうーお客さん静かにしてくださいな、他の方の迷惑になります」

 ひょこりと運転席から愛らしい小さな顔を覗かせた女の子と目が合って、今度こそ気が遠くなった。

 いっそ意識を飛ばせていたら良かった。



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