「部活って、友達って楽しいですね」
ゆっくり食べ歩きながら、ぽつりと呟いてしまった。あんなに大好きなバレーをしていたはずなのに、それを共にする仲間である友達だったはずなのに、私はいつの間に楽しむことを忘れていたんだろう。旭さんはああ言ってくれたけど、心が洗われたのも憑き物が落ちたのも私の方だった。
「先輩、お二人に会わせてくれてありがとうございます」
「俺は何にもしてないけどね」
先輩の大切な何かを見せてもらったような、懐の中に招いてもらったような、受け入れてもらったようなそんな嬉しさだった。先輩が食べ終わりそうなのを見計らって、紙袋を差し出す。
「もう一個ありますよ」
「俺はいいから、紫乃食べな」
「じゃあっ!はんぶんこしましょう」
もしかして私、物欲しそうな顔をしていたんだろうか。吹き出すのを堪えるように笑う先輩の表情が素敵だなぁとこっそり思いながら、二つに割った中華まんの片方を差し出した。
「懐かしいな、”はんぶんこ”」
「よくいろんなものわけっこしましたね」
「コロッケとかタイ焼きとかがりがりくんとか」
「それで喧嘩もしましたね」
「そうそうどっちがアイス先に食べるってやつな」
「あとどっちが大きいかとか」
「あの時のアイス当たったよな」
「結局またはんぶんこして」
「あれ1個ずつ食べればよかったのにな」
「私はいいよって言ったのに先輩が半分くれたんですよ」
あの時からもう、先輩のこと好きだったなぁ。最後はいつも何かを譲ってくれるやさしい先輩が。実はちょっとだけ二人っきりに緊張していたのだけど、きちんと話せていてよかった。
「紫乃、一個きいていい?」
「ふぃ?」
学習しない私は、また中華まんで口をいっぱいにしてしまっていて、変な相槌になってしまった。口元を手で押さえてもごもごする私を先輩が笑う。ああどうしてもっとお上品にかわいらしくかじらなかったのだろう。
「紫乃って、もの食ってる時ハムスターかリスっぽいよな。ほら頬袋」
「んくっ…中身出ます」
楽しそうに、食べてる最中の人の頬をつつく先輩にどぎまぎする。触られたところから発熱するようで、恥ずかしさを振りほどくようにその手から逃げた。
「なんですか?ききたいこと」
「あー、……あのさぁ」
ふいに笑みがほどけて先輩が真面目な顔つきになる。真剣な目でじっと見つめられると鼓動が乱れるどころか呼吸まで止まりそうだった。ごくり、中華まんの塊を飲み込んだ喉が大きく鳴ってしまった。
「なんであいつらは名前にさん付けで、俺だけ”先輩”?」
「……えぇーと、…その……先輩は先輩…だから…?」
先輩にじっと見られていると思うと落ち着かなくて、ついしどろもどろになってしまう。その返答がお気に召さなかったのか先輩は難しい顔をしてしまった。
「えっと…だから先輩は先輩だから、特別なんです」
「俺、何かした?」
「いいえ、その…」
「幼馴染に初対面の奴以上に避けられる日が来るとは…」
「ええ!」
「俺と紫乃の信頼はその程度だったんだなぁ」
「っち、ちが…」
ちょっと待ってどうしてこうなったのだろう。話がおかしな方向へ行っている気がする。なんとか誤解を解かねばと、迫ってきたと思ったら今度は背中を向けてしょんぼりモードの先輩のジャージを慌てて掴んだ。
「誤解です違います!私にとって先輩っていうのはとても特別な呼び方なので、先輩にしか先輩って呼ばないようにしてるんです!」
「……」
はぁと溜息をついて黙ってしまった先輩に、話しかけても服を引っ張ってもなんの反応もなくて、拒絶されたように感じた。どうしようどうしようと、そればっかり浮かんできて、思考が空回りしてしまう。何か喋らなければと不安になる。どう言えばわかってもらえるのだろう。どうしたらさっきみたいにこっち向いて、喋ってもらえるんだろう。記憶よりも大きな背中は、別の人のようにも見えた。…私が先輩を見間違える事はきっとないけれど。
「特別っていうのは先輩の事を特別尊敬してるって意味で苦手とか嫌いとかじゃないんです!だからその、昔から先輩って呼ぶほど憧れてる人は先輩だけなんです。だからほかの人は名前でしか呼んでなくてえっと…だから大地さんと旭さんって呼んでて…だから…」
泣きそうになってきた。ついさっきまであんなに楽しかったのに。恥ずかしさと泣きたさで頭の中がどんどんぐちゃぐちゃになっていて、もう自分が何を言っているのかよくわからない。
「どうしたら許してくれますか?…て言っても今私本当に中華まんしか持ってなくて…」
「…っぶは…っ!!」
もう耐えきれないといった風に、突然先輩がお腹を抱えて笑い出した。何がツボにハマったのだろう。…いま、私は何を言ったんだろう。笑われると、みるみるうちに冷静になっていった。私は一体何言ってるのか。まるで告白じみたものをしなかっただろうか。しかもよりにもよってどうしてあのタイミンングで中華まんが口から出てきたのだろう。…ああ手に持っていたからか。ばかなの私。食べかけあげてどうするの。しかももうそんなに残ってない。どんな嫌がらせだ。もう逃げたい。いますぐ消えたい。そう思ったら、ジャージを握りしめていた左手が外れて勝手に逃走を開始していた。はー笑った笑った、と先輩の声がする。
「紫乃ってほんっと素直だよなぁ…焦ると全ー部吐いちゃうんだもんな」
いっつも嘘吐けなくて悪戯は自首してたっけなぁ?そう笑う声に余計な事を口走ってしまったのを心底後悔した。ついてくる楽しそうな先輩の声に、何がなんでも振り向くものかと全力の早歩きで帰りを急ぐ。最初っから元気だったよこの人。騙された。
「昔っから仲直りの品は食いもんくれたよな」
「知りません忘れました」
「あと俺が凹んでる時も」
「だから覚えてません」
嘘だ。よく覚えてる。今にも泣き出しそうだった先輩になんとか元気を出してもらいたくて、夢中で飴を山盛り先輩の両手に乗せた。こんなにはいらないと先輩は笑ってくれた。まだ笑いを堪えてる先輩の声が耳に煩い。ああ声がわりしてかっこよくなったなぁとか考えてしまう自分が悔しい。逃げたくても走れない足では簡単に追いつかれてしまう。走れたところで絶対に先輩は振り切れないのだけど。
「ほら、あんまり急ぐと危ないだろ」
「一体誰のっ…せ、い…」
手首を掴まれて、いくら先輩でも睨んでやると振り返ったのに、恨みのその言葉は殺されてしまった。私の右手を掴まえた先輩が、そこに忘れ去られた中華まんを、私の指ごとぱくりと食べていた。
「!!!!!」
人差し指と、親指に唇のやわらかな感触がして、叫ばなかった自分を褒めたい。にやりといじわるな目線ひとつで心臓を射抜かれる。溢れんばかりのこの色気は一体なんなんだ。かわりすぎだ。かっこよすぎだ。なんでその動作一つがエロいんだ。流し目か。流し目のせいか。ゆっくりとあたたかい感触が離れていって、皮膚の表面がびりびりした。ああこんなに先輩の全てを意識してしまう私ってば変態なのかもしれない。
「ごちそーさま」
「……私の…最後の一口…」
「言っとくけどくれるって言ったの紫乃だからな?」
「人の手も一緒に食べないでください先輩の食いしん坊」
「ははっ」
何か言わないと気が済まなくて、先輩の顔を見ないようにうつむきながら、そう皮肉を口にしていた。きっと真っ赤な顔も震える手もバレてる。先輩といると、ずっと壊れてしまったみたいに鼓動がうるさい。こんな風に幼少期の純粋な”すき”が、うまく呼吸ができないほどの恋に変わったのはいつからだっただろう。先輩が中学に上がったぐらいだった気がする。
「中華まんならまた明日買ってやるって」
「そんなに私は食い意地張ってません」
「じゃあいらない?」
「………いる」
どうやら、先輩は私が中華まんを食べられて怒っていると思っているらしい。…違うのに。でも楽しそうに笑ってる先輩が見られるならそう思われててもいいかと気を取り直す。明日の約束もしてくれたようで嬉しかったから、そういうことにしておこう。
「紫乃が俺”だけ”を特別に先輩って呼ぶのは分かったからさ、」
「…っ」
「名前もつけて呼んでよ」
心臓をぎゅうと鷲掴みされて、少しはにかむような笑みはあんまりかわってなくて、悔しい。私ばっかり振り回されてて悔しい。私ばっかり好きで悔しい。苦しい。好きって苦しいんだという事も、私は先輩で知った。
「…先輩いじわるになりましたね」
「俺が意地悪するのは紫乃だけだよ」
「…う、嬉しくない」
ああ、かわいいことが言えない。そう自分を恨む。嘘です、先輩にかまってもらえるならいじわるでもとても嬉しい。他の女の子とも、こんな風に先輩が戯れていたら哀しい。いるかもわからない女の子の事を想像してしまって、勝手に瞬く間に落ち込んでしまった。急降下。先輩がモテる事は、よく知ってる。
「ほら紫乃練習」
「……スガせ「まさか俺の名前忘れたとか…言わないよな?」
…!!」
にやにやとした笑いに、焦ったり恥ずかしがったりしてる私をからかっているんだと気づいた。悔しい。むかつく。いじわるな笑いでさえかっこいいのが、むかつく。どうして先輩は余裕に満ちてて、私はこんなにいっぱいいっぱいなんだろう。
「こっ…こ、ここーし…せ、んぱ……い」
「はいやり直し」
「…孝支先輩!!」
「よくできました」
ぎゅうと思い切り目を瞑って叫んだ瞬間、突然先輩の腕が私の首をホールドした。わしゃわしゃと頭を撫で回されて目を白黒させてしまった。近い。距離が近い。例えるなら真正面から思い切りハグされてる感じ。…たとえじゃなくて実際にそうだった。部活の後なのに先輩からいい匂いがして、私は汗臭くないだろうかとそればっかり考えてしまって落ち着かない。聞きたいけど怖くて聞けない。
わしゃわしゃぐりぐりしていた手が段々と勢いを失っていく。やがてぴたりと止んでしまったそれは、力なく添えられているだけになった。
「……じゃあ、なんで」
掠れるほど小さく僅かに聞こえた低い声に、私はさっきまでとは打って変わった先輩の様子に固まってしまった。まるで筆の先から半紙にこぼした墨のように、じわりと何かが広がっていった。
「なんで怪我のこと、俺には言わなかったの」
そう装ってはいるけれど、責めるわけでは到底ない、やさしい声だった。それが逆に、自分の罪を鮮明に晒け出して突きつけていた。あの先輩に、こんな事を言わせているのは私だ。うつむいた先輩の視線がどこにあるのか、それがわかりすぎて苦しい。
「俺、怒っていいよな?」
抑えられた声は怒っているのではなく、傷つけたのだと、どうしようもなく思い知った。もう取り返しのつかないそれを後悔する資格は私にはない。このやさしすぎる人が、私ではなく私の母から聞かされた言葉が、どれだけ傷つけてしまったのかを。
…あの足ではもうバレーはできない。たとえできるようになってももうやらせない。これ以上傷を残させない。夢を失っても、歩けなくなるよりずっとマシ。きっと何度も私に繰り返てきたように、母は彼にそう言っただろう。
「…ごめん、なさい」
謝るのは卑怯だとわかっていたのに、そう言わずにはいられなかった。失ったものの大きさを、今更思い知った。私ひとりで終わらせられる問題ではなかったのに。私は私ひとりでバレーをしてきたわけではなかったはずなのに。そして何よりそれを、先輩が教えてくれていたのに。
「…負担になりたくなかったんです」
いつか分かってしまう事だとしても、まだ今ではないと言い聞かせてきた。そう引き延ばしてきたのは、私の弱さで、甘えだ。傷つきたくないから誰かを傷つけるなんて、なんて私は最低な人間なんだろう。しかも相手は先輩なのに。世界で一番好きな人なのに。
「……帰るべ!」
どれくらいそうしていたのか、お互いの沈黙を破るように先輩が腕を解いた。困ったように笑う顔が、どうしようもなく好きだ。くしゃりと私の髪を撫でた手が、うつむいたままの私の手を引く。この手だけは、失いたくない。もうバレーのない私は何を捨てたっていいから、そう強く願った。