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25

「すみません。無理を言ってしまって……本当に助かりました」
「いや、気にしなくって良いからさ。とにかくレポートが終わって良かったな」

申し訳なさそうに頭を下げたジェイクに笑ってそう言えば、安心したように「はい」という素直な返事が返ってくる。
ジェイクの律儀で素直な性格は、エドワードが彼を好ましいと思う理由の最たるものだ。

どうしても納得のいくレポートにならないので1度見てほしい、と大量の文献と紙の束を抱えたジェイクが司令部の外門で待ち伏せしていたのには驚いたが、基本的に長女気質なエドワードは二つ返事で請け負い、司令部近くのカフェであれこれと議論を交わし今に至る。

「エドワードさんのお陰で矛盾点が一掃された素晴らしいレポートになりました。お礼に何かご馳走させてください」
「お礼なんて良いよ。学生に奢ってもらうなんて、社会人のする事じゃないだろ」
「バイト代が入ったんで懐は温かいんですよ。それに、これは立派な等価交換ですから」
「でも……」

エドワードにとってジェイクは、アルフォンスと同じく年少者である。
しかも学生なのだから、立場としては庇護すべき相手だ。
頷くには多大なる躊躇いがある。

「お願いします。でないと、ちゃんとお礼も出来ないのか、って祖父に怒られますし」
「あー…マーロゥのじいちゃん怖いもんな」

だが、そんな風に困ったように言われてしまっては、それ以上拒む事は出来なかった。
何しろマーロゥ氏といえば、厳格を絵に描いたような頑固爺さんなのだ。
ジェイクの言う通り、きっとくどくどと小言を言われる羽目になるだろう事は想像に易い。
分かっていて知らんぷりは出来ない。
とにもかくにもエドワードは長女気質だったので。










「本当に、今日はありがとうございました」
「いや、こちらこそご馳走様。かえって悪かったな」
「そんな、とんでもないです。本当ならもっと格好付けたところにお連れしたかったんですけど……ホテルのレストランとか、僕には敷居が高くて……」
「充分だって!俺、ああいうアットホームな食堂とか好きだしさ」

連れられて行った田舎料理がメインの食堂は、学生御用達なのか安くてボリュームがあり、どこか懐かしい味がした。
地方からセントラルに出てきている学生達などは、女将を「お母さん」と呼んで慕っているらしいが、なるほどと頷いたものだ。

「それに、そういうところは、彼女と行くもんだろ?」
「もちろん僕もそう思ってます…というか、…あの、…そのつもりというか……」
「は?」

何やら急にしどろもどろになったジェイクに、エドワードは首を傾げた。
いつも真っ直ぐ逸らされる事のない視線は、そわそわと落ち着きなく泳ぎ、何かを言いあぐねるように口をモゴモゴさせている。

「どうした?」
「あ、あの……エドワードさんさえよろしければ、なんですけど」
「?」

雑踏に紛れるくらいの控えめな声で、それでいていつになく神妙に、ジェイクはそんな前置きをした。
こんなはっきりしない態度は、彼にしてはとても珍しい事だ。
そこに隠しきれない緊張を感じとって、エドワードはたじろいだように視線を彷徨わせ―――ふと、視界の隅を横切った光景に目を奪われた。

見慣れた漆黒を纏う男が、美しい金髪の女性を伴って華やかな通りを歩いているのが見えたのだ。

一瞬、悲鳴が出そうになって、エドワードは慌てて口元を押さえた。
それまで賑やかだった街の雑踏が一瞬にして消え失せる。

「エドワードさん……?」
「……ごめん、ジェイク……俺、急用を思い出した。……帰る」
「え?……あ、じゃあ僕、送って……」
「いや、良い……ごめん」

ジェイクの、驚いて呼び止める声が背中を追いかけてくる。
けれど、エドワードは振り返らずに一心不乱に駆け出した。

この、引き絞られるような胸の痛みは何だろう。
ぽっかりと穴が開いたような、この心許なさは何だろう。
沸々と湧き上がってくる、この苛立ちのようなものは…?

どこをどう走ったのか、気が付けばエドワードは家の前に立っていた。
灯り1つ灯されず真っ暗な闇に沈む家は、家主に置いてきぼりを食って泣いているかのように見える。
玄関を開け灯りを点して、エドワードはリビングのソファに座り込んだ。

「なんだよ、アイツ……鼻の下伸ばしちゃってさ」

むぅ、とエドワードの眉間に皺が寄る。
ふと浮かんだのは、先ほどロイがエスコートしていた女性の事だ。
起業家だか何だかの娘らしいが詳しくは知らない。
だけど、彼女がたびたびロイのもとを訪ね、一緒に食事に出かけたりデートを重ねている事は知っている。
いずれ結婚するのだという事も。

結婚が、ロイの野望の為にも重要な意味合いを持つ事は理解している。
その点彼女は申し分ないのだろう。
何しろ父親はロイの重要な支援者で、本人はあんなに美しい女性なのだから。
頻繁にデートをしているところからして、ロイも彼女を気に入っているのだろう。
もちろん彼女も。
ならば、それはもうただの政略結婚ではない。
きっと幸せになるだろう。
それは喜ばしい事だ。

なのに、ロイの腕が彼女の腰を抱くのを見たくないと思った。
ロイが誰かを傍に置くのも、誰かを大切に思うのも、誰かに優しく微笑みかけるのも、全部嫌だと思った。
そんな醜い独占欲のようなものを抱く自分が、何だかとても汚らしいと思った。

いつだって家族のような温かい愛情でエドワードを包んでくれるロイに、何故同じように返せないのだろう。
何だかよく分からないけれど、こんな自分を誰にも知られたくないと思った。

おそらく今夜、ロイは帰って来ないだろう。
今の顔を見られずに済む事にホッと胸を撫で下ろしながらも、心のどこかで焦げつくような不可思議な感情が存在する事を漠然と感じていた。

そうして、エドワードはただぼんやりとソファの上にいた。
眠らなければ明日の仕事に差し障ると分かっているのに、とても眠れる気がしなかった。


一体何時間そうしていたのか―――不意に、ガチャリと玄関の開く音がして、エドワードは呆然と顔を上げた。


「……まだ寝てなかったのか?」

ロイはエドワードの顔を見るなり驚いたようにそう言うと、気まずそうに視線を泳がせた。
そのどこかよそよそしい仕草に、エドワードの中で何かが音を立てて崩れた。

「ちょっと考え事してただけだ……もう寝る」
「また考え事かい?何か問題でも起きたのか?」
「別に」

一言で返し、エドワードはソファから立ち上がった。
腹の底から湧き上がってくる得体の知れない感情の波が決壊しようとしている。
何を言い出すか自分でも分からなくて、エドワードは慌ててロイの横をすり抜けようとして―――ロイの手によって引き止められた。

「待ちなさい。何か困っている事があるなら…―――」
「んなの、ねーよ。…つーか、アンタ香水臭い」
「え?」
「匂い、移りそうで嫌だ」
「あ、すまない……」
「どんだけベタベタしてきたんだよ…ったく」

ぷい、と拗ねたように唇を尖らせて、エドワードはロイの手を振り払った。
たったそれだけの動作で、ねっとりと纏わりつくような甘い花の匂いが辺りに広がり、毒々しいまでのその匂いに吐き気が込み上げてくる。

なんだか無性に苛立って仕方なかった。
ちょっと抱き寄せたくらいでは、ここまで匂いは移らないだろう。
ここまで他人の匂いを染み込ませておきながら平気な顔をしている恥知らずな男を、力一杯睨み付ける。

「そんな匂いつけてくるくらいなら、泊まってくりゃ良いじゃんか」
「鋼の……?」
「俺が家にいるからって、無理に帰ってこなくても良いのに……アンタは自分の事だけ考えてりゃ良いのに」


―――俺の事なんて放っておいてくれれば良いのに。


「鋼の……」
「そんな匂いさせてるアンタなんか……嫌いだ」


こんな時ですら、心配そうな顔で俺を見ているアンタが嫌いだ。



2011/02/05 拍手より移動

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