17 「あれ?今?」 「……鋼の?まだ起きていたのか?」 急な会食の所為で日付も変わろうかという頃になって漸く帰宅したロイは、リビングでエドワードとばったり鉢合わせた。 いつもなら既に眠っている時間のはずだが、たった今風呂から上がったばかりなのか、洗い髪にタオルを巻いている。 「資料をここに置き忘れててさ、取りにきたんだ。…あ、お茶か何か飲む?ご飯済んでるんだよな?」 「あぁ、気を遣わないでくれ。君はもう寝るんだろう?」 「いや、今晩中に目を通さなくちゃならない資料だから、もうちょっと起きてるし……顔合わすの久しぶりなんだし、お茶くらい付き合ってよ」 「そうか。では、いただこう」 そう言って上着を脱いでソファに座れば、エドワードは嬉しそうに笑った。 その表情は、まるで自分の帰りを心から待ち侘びていてくれていたかのようで、ふわりとロイの胸に甘い感情が湧き上がる。 こういう気持ちを、いとおしい、と言うのだろうか。 彼女は、ずっと大切にしてきた愛すべき子供であり、優秀な錬金術師であり、破天荒な部下であり、共に戦った事もある同志だ。 彼女に向かう感情は、昔から言葉にするにはいろいろと複雑すぎて、どう表せば良いのか分からなかった。 ただ、ひとつだけ確かな事は、自分は彼女を幸せにしてやりたいのだ、という事だ。 彼女をただ甘やかして、大切に、真綿に包み込むようにして、優しくしてやりたい。 いつだって彼女が笑っていられるように。 出来ればずっと、このまま。 「あ、そうだ。今日の昼、アダムス中将から息子の嫁になってくれって言われてさぁ。…断ったんだけど、」 「は?」 資料の解析に対するアドバイスをしながらお茶に付き合っていたロイは、不意に告げられた言葉に目を剥いた。 彼女の口にしたその名前には嫌というほど覚えがある。 何度もエドワードに手紙を寄越した(密かに闇に葬ったが)男の父親だ。 先日、ロイを通して縁談を持ちかけてきた時にしっかりと断ったというのに、何としつこいジジイなのか。 大体、あのショーンとかいう息子ときたら、大した仕事も出来ない上に人の手柄を横取りするようなクズだ。 どこをどう見積もってエドワードに相応しいというのか、あの腐った頭を割って中身を覗いてみたいものだ。 「……もしかして、断ったら不味かった?」 「は?いや……ちょっと驚いただけだ」 「ほんとに?」 「君はいちいちそんな事を気にしなくて良いんだよ。嫌なら断れ。私の立場とそれとは全く無関係の話だ。仮に自分の地位を盾に何か言ってくるようなら、私が叩き潰してやる。心配するな」 安心させるように微笑んでやれば、エドワードは心底ホッとしたようにため息を吐いた。 「実はちょっと心配してたんだ……でも、良かった」 肩を竦めて笑うエドワードは、薄手のパジャマを着ている所為か殊更華奢な印象を受けた。 というか、身体のラインが丸分かりではないか、と改めて気付かされる。 ふと、そう意識してしまうと、ロイは目のやり場に困って視線を泳がせた。 女性の裸だって見慣れているし今更純情ぶるつもりはない、ましてやエドワードはちゃんとパジャマを着ている。 だが、何故かエドワードの方を見るのは憚れた。 何というか、とても悪い事をしている気分になるのだ。 本人は全く意識していないようだが……それはまぁ、昔からだ。 何しろエドワードときたら、昔は平気でロイの前で着替えたりしていたのだ。 さすがに真っ裸になった事はないが、下着姿なら何度も見た事がある。 あの頃は正真正銘の子供だったから、特にどうという事はなかったのだが、今は違う。 彼女はもう子供ではないのだ。 ―――あぁ、そうか。 今、この瞬間、ロイは気付いてしまった。 自分は、彼女を女性だと意識する事に罪悪感を感じているのだ、と。 そしてそれは、彼女を異性として意識しているのだという事に他ならない。 幼さの残る子供だった彼女が4年という月日を飛び越え大人になって現れた時、ロイの中に芽生えた戸惑いは、彼女を1人の異性として意識したからだ。 だが、無意識のうちに働いた罪悪感がその感情を歪に歪ませ、昔と同じ関係を結ぶ事で感情の均衡を保とうとした。 その胸の内には彼女への劣情を隠し持ったまま。 「……少将?」 「あ、いや……私はそろそろ風呂に入って寝るよ。君もほどほどにしておきたまえよ」 そう言って、ロイはソファから立ち上がる。 不自然にならないように、心の動揺を悟られないように、出来るだけの穏やかさで。 だが、内心の焦りは相当なものだった。 とにかく1秒でも早くこの場から離れなければならないと。 「うん。…じゃあ、残りは部屋でやるよ。付き合わせてごめんな」 「構わないよ。…じゃあ、おやすみ」 「うん、おやすみ。……っと、うわっ!」 「!?」 何かに躓いたのか、エドワードに体当たりの勢いで背中から抱きつかれ、ロイは思わず硬直した。 背中に押し付けられた膨らみの程よい弾力に、彼女がパジャマの下に下着を着けていないのだと気付いてしまって、ロイの頭の中は一瞬真っ白になったのだ。 お前は思春期の少年か!と自分で突っ込む余裕もない。 「イタタタ……ごめん。躓いた」 「あ、あぁ……怪我はないか?」 「うん。……つか、やっぱ背中広いなー少将。…それに、腰!細く見えるけど、がっしりしてて……さすがだよなぁ」 なのに、もはや石像と化しているロイにお構いなしに、エドワードは無邪気にもそのまま強く抱きついた。 後ろから回した手で横腹や腹筋をまさぐられたのに至っては、口から心臓が飛び出すかと思うほどのダメージを受け、頭にカァッと血が上る。 「君は…私が男だという事を忘れてないか?」 「え……」 出来るだけ脅かさないように、それでも慌てて腕を振り払えば、たった今気付きましたと言わんばかりの表情でエドワードは瞬きを繰り返す。 それに、ロイは苦笑を零すしかなかった。 ロイの、彼女に対する思いは、優しさや温かさを含むものだけではない。 肉欲を伴う凶暴で醜悪なものだ。 自覚してしまった以上、もう後戻りは出来ない。 だが、この身に潜む欲を知ったら、彼女は怖がるだろう。 きっと裏切られたと傷付き、二度と傍には寄ってこなくなるに違いないのだ。 「君はもう、立派な大人の女性なんだ。こんな無防備な真似を、誰彼なくするものではないよ」 「え……あ、…だって……アンタ、だし…」 「私でも、だよ」 「…………」 ポカンと呆気にとられたような表情で立ち尽くすエドワードの頭を優しく撫でて、ロイは背中を向けた。 戸惑いを隠せないでいるエドワードに気付きながら、それでも振り向く事なく自室へと向かう。 ―――早く、この手が届かない場所へ。 触れて、彼女から向けられる全てを失う事が怖い。 何としてでも、この感情を知られる訳にはいかないのだ。 「……自覚した途端、このザマか」 自室に駆け込み、ずるずるとその場に座り込めば、俯いた視線の先、信じられない現象を目の当たりにして、ロイは深いため息を吐いた。 たったあれだけの接触で随分と正直な身体だ、と涙が出そうになる。 「一体いくつのガキだ……私は」 そう自嘲しながら、ロイはふらふらと風呂場に向かう。 誰よりも大切で、誰よりも幸せにしたいと願う彼女を守る為に、彼女を諦めなくてはならないとは皮肉なものだ。 ぎゅっと固く目を瞑り、思いを断ち切るように開く。 その目には、小さな絶望が映し出されていた。 2010/12/24 拍手より移動 back |