12 「あーびっくりした」 風呂上がりの身体をパジャマに包み、濡れた髪をがしがしと拭きながら、エドワードはポツリと言った。 つい先ほどの事だ。 元上司で後見人、現在の職場の保証人となってくれている男に、自分の事を名前で呼ばれたのだ。 国家錬金術師になった12の頃から、あの男がエドワードを名前で呼んだ事など今まで1度もなかった。 呼ばれたいと思った事もなかった。 そもそも名前を呼び合うような間柄ではなかったし、子供だと侮られるのも馴れ合うのも嫌だった自分にとって、銘で呼ばれる事は1人前に扱われている証拠のようで、むしろその事に誇りを感じていたからだ。 あの声で、時に厳しく、時に労るように、銘を呼ばれるのが好きだった。 だけど、まさか名前で呼ばれる日が来るなんて、思いもしなかった。 だから、あんなに驚いてしまったのだと思う。 いきなりあんな風に人の名前を呼ぶなんて。 あんな優しさを滲ませた声で、愛しそうに自分の名前を呼ぶなんて――― 「うわ…思い出したら鳥肌が……」 すりすりと腕を擦りながら、エドワードは唇を尖らせた。 何かまだあの声が耳に残っているようで、背中がムズムズする。 さっきは勢いでキモいとかサムイとか言ってしまったが、あの時背中を走ったどうにも説明のつかない感覚は、何という言葉で表現すれば良いのか分からない。 何か得体の知れない疼きのようなものが腹の奥の方で燻り、心臓が大きく跳ね上がったような気がして……ざわざわと、耳の後ろや首筋から背中にかけて過ぎたのは、悪寒とはまた違うものだと思う。 思うのだ、けれど。 それをどう表現すれば良いのか分からない。 とにかく、初めて感じた感覚だったのだ。 「あれ?……のぼせたか……?」 やたら火照ってくる頬をぺちぺちと叩いて、エドワードはため息を吐いた。 こんな事くらいで動揺しているようではダメだ。 たかだか名前を呼ばれたくらいで、一体なんだというのだ。 あの男の突飛な思い付きに惑わされているようでは、先が思いやられるではないか。 何しろ、今日から自分はこの家に住む事になった訳だ―――この、無駄にバカでかい家に。 むむむ、と眉間に皺を寄せて、エドワードは部屋を見渡した。 広い部屋だ。 今まで住んでいたアパートの部屋の総面積の軽く3倍はある。 おまけに専用のお風呂とトイレが付いている、とくれば、こんな豪華で快適な暮らしに慣れていない身には落ち着かない気分になっても無理はなかろう。 ここに来てから感じている浮き足立つような、何だかよく分からない心境にそんな理由をつけて、とりあえずエドワードは納得する事にした。 前もって渡されていたスペアキーを携え、荷物と共にこの家にやってきた時点で、エドワードはあまりの大きさと豪華さに大層驚いた。 将官の地位を与えられた時に、とりあえず体裁を取り繕う為に建てた家だと聞いていたが、1人で住むには無駄だらけな家である事は間違いなかった。 入ってみれば、思った通り使っていない箇所の方が遥かに多いだろうなという印象を受けた。 管理が行き届いている、というよりは、生活感がないのだ。 ―――と、そこで。 エドワードは、唐突に気付いた。 あの男、恋人はいないのだろうか、と。 この様子だとこの家に招いた事はなさそうだが(と言い切れるくらい物がない)、だからと言って自分を住まわせて良いのだろうか。 自分とあの男の間に間違いなんて起こるはずはないが、世間的に見れば微妙な事態かもしれない。 仮にあの男が結婚する事になった時、ややこしい事にならないだろうか。 あまりに気になって恋人の有無を聞いてみたが、とりあえず心配は要らなさそうだったのが幸いだったが。 「つーか、いない訳じゃねーんだろうな……」 そうだ。 自分も、あの男が女性と一緒にホテルに出入りしているのを何度となく目撃したではないか。 今更ながらにそう思って、チクリと胸が痛んだ。 寂しいような悲しいような複雑な気持ちだ。 あぁ…―――これが、兄ちゃんを恋人に取られた妹の切なさというヤツか。 なんだかよく分からない気持ちだが、エドワードはそう結論付けた。 なんか昔そんな話を誰かから聞いた事があったのだ。 あの男とは長い付き合いだから、きっと情が移ってしまったのだろう。 特にここ最近は一緒にいる事が多かったし、すっかり頼りにしきっていたから。 いずれ兄離れをしなくてはならない日が来る。 さっきの話を聞く限り、まだしばらくはこのままでいられそうだけれど、いつかきっと、そう遠くはない未来に。 「あ、ヤベ……しょんぼりしてきた」 俺ってば、いつの間にこんな兄ちゃんっ子になっちまったんだ。 こいつは由々しき問題じゃねーか。 エドワードは拭きすぎてボサボサになった髪を手櫛で整えながら、そんな風に考えた。 考え出したら止まらないのがエドワードの悪いところだ。 「それに、いつまでも俺の面倒を看てたら、アイツ、婚期を逃しちまうもんな……いや、…もう既に逃してる、のか……?」 ポツリと零し―――エドワードの顔色が変わる。 もしかしたら、これはとても不味い事ではないのか。 自分がこうしてコブのようにぶら下がっている限り、あの男は結婚も出来ずに1人寂しく年老いていくのかもしれないのだ。 それはダメだろう。 寂しいけれど、あの男には幸せになってもらいたい。 こんな面倒な子供を、ずっと見捨てずにいてくれた人なのだから。 エドワードは頭に被ったタオルをそのままに部屋を飛び出した。 それから目の前の、ロイの部屋のドアを思いきりノックすれば、あまりの剣幕に驚いたようにロイが顔を出した。 ちなみにこちらもパジャマ姿だった。 「鋼の?…一体どうしたんだ?」 「少将、ごめんな!」 「は?」 ドアを開けるなり謝られ、ロイは面食らった顔で1歩引いた。 エドワードはそのままの勢いで部屋に突入すると、呆然とするロイの首根っこをひっ捉まえて口を開く。 「アンタは、俺の父ちゃんでも兄ちゃんでもねーんだ!」 「……なんだ、いきなり。私の存在を完全否定か?」 エドワードのその言葉は少なからずロイをへこませた。 だが、エドワードはそんなロイの心の機微を察する事なく更に言い募る。 「俺、早く1人前になるから!だから、もうしばらく我慢してくれよ!?」 「は?何の話だ?」 「ごめんなぁ……ほんっとーにごめん!」 「だから、一体何の話だ?」 夜更けに男の部屋に2人。 互いにお風呂を済ませてパジャマ姿で、後はもう寝るだけで、半ば抱きつく格好で押し問答をしている―――という、なかなか色っぽいシチュエーションでありながら、一向に甘い空気には染まらないのが、この2人の現状だ。 そんな訳で、至って何事もなく、同居後初めての夜は更けていったのだった。 2010/12/02 拍手より移動 back |