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08

軍司令部―――殊に、この国の軍事中枢機関である中央司令部には、暇と呼べるものはない。
軍人たるもの、24時間365日来る日も来る日も訓練や業務に明け暮れ、日夜アメストリスの平和と繁栄に心血を注いでいるのだ。

―――しかし最近、ここ中央司令部に於いて、午後のお茶の時間になるとマスタング少将直轄の部下達が詰める司令室の人口密度が高くなる、という現象が起きていた。

とはいえ、ここには「午後のお茶の時間」などという優雅なものは存在しない。
各々、僅かの空き時間に一服したり、司令部常備の薄くて不味いお茶を啜るのが関の山だ。
という訳で、人口密度は高まってはいるが、彼らは決して優雅なお茶会を開いている訳ではない。

―――では、彼らは何をしに集結しているのか、と言えば。

毎日その時間帯になると、マスタング少将のもとへふらふらとお茶を飲みに訪ねてくる1人の女性がいる。
時にお茶菓子を手にやってくる破格の待遇でもって迎えられているその女性は、マスタング少将が溺愛して止まない愛し子、元鋼の錬金術師エドワード・エルリックだ。

今や中央司令部きっての高嶺の花とも言われる彼女に憧れを抱く者は多い。
だが、マスタング少将はじめ彼の古参の部下達による頑強なガードにより、話しかけるどころか擦れ違う事すら難しいのだ。
よって、そんな美しくも聡明な彼女の姿を一目でも見ようと、わざわざその時間に合わせて書類を回してくる者が後を絶たない、という訳だ。

げに悲しきは、男の性である。





「あ〜…やっぱ割れてる……」

今日も今日とてお茶菓子持参でやってきたエドワードは、ソファに腰掛けるなり何やらぶつぶつ言いながらしょんぼりと肩を落とした。

「どうした、大将?」
「これ……」

どうしたのかとハボックが問えば、エドワードは唇を尖らせて手元の箱を広げて見せた。
箱の中には素朴な風情のサブレが詰まっていたが、エドワードの言葉通り所々欠けたり割れたりしている。

「昨日、お気に入りのカフェで買ったんだ。お茶の時間に食べようと思って……なのに、割れた」

そう心底残念そうに呟いて、エドワードはみんなにお茶を手渡しながらサブレも一緒に薦める。
ハボックも少し欠けたサブレを受け取り、早速口に放り込んだ。

「お、美味い」
「だろ?大通りの“クレール”ってカフェのサブレなんだ。俺の一番のお気に入りだからさ、みんなにも、って思ったんだけど」
「さっき“やっぱり”って言ってたけど、落としたの?」

フュリーがそう聞いたのも他意はなかった。
年齢と共に落ち着いてきたエドワードだが、相変わらずのハチャメチャっぷりなのだ。
何か突飛な事をしたのだろうか、と、軽い気持ちで問うたのだが。

「うん。だって、いきなり抱きついてこられたらびっくりするよな?」
「……は?」

一瞬にして司令室内に沈黙が落ちる。
フュリーの口からは食べかけのサブレがボロリと落ちた。

「鋼の……抱きつかれたというのは、誰に?」

一瞬の後、ロイから発せられた声は氷の如く冷たいものだった。
それが決して気の所為などではない事は、その右手に素早く発火布がはめられた事で分かる。

「なんか変なヤツだよ。よくあるんだ……帰り道で待ち伏せされたり、うちの玄関の前に座ってたり、窓から忍び込んでこようとしたり。…あ、ちゃんと1人残らず取っ捕まえて憲兵に引き渡したから大丈夫」

ボリボリとサブレを食べながら、エドワードは何て事ないように言った。
それに、居合わせた人間は皆顔面蒼白になる。
何呑気な事を言ってるんだ。
危ない、危なすぎる。

「君、もっとセキュリティのしっかりしたところに住みたまえよ」
「あんまり高いとこ住めねぇし」
「研究所からはそれなりの給料が出てるはずだが?」
「アルの学費が大きいんだよ。医学部舐めんな」
「だから、私が学費を肩代わりしてやると何度も言ってるだろう」
「俺がそう決めたんだ。だから、少将からの資金援助は受けない」

普段からご飯を食べさせてもらっている事は援助に含まれてないのか、ナチュラルに忘れているだけなのか。
ビシッと気っ風よく言い放ったエドワードに、周囲の人間達はどうしたものかと首を捻る。
昔から言いだしたら聞かないところのある娘だが、このままだと心配で放っておけない。

「ふむ……良い事を考えた」

しばらくの沈黙の後、不意に呟かれたロイの言葉に皆の視線が集まる。
さすが付き合いが長いだけに頑固娘の扱いには慣れているらしい。
きっと上手く事を納めてくれるだろう、と胸を撫で下ろした部下達は、だが、上司の妙に機嫌の良さそうな表情に背中を冷たいものが伝うのを禁じえなかった。
どこかしら見覚えのあるこの顔は、ろくな事を考えていない時の顔ではないか。

「―――鋼の。君、私の家に住みなさい。ちょうど余っている部屋があるから」

何の含みもなく吐かれた台詞に、その場に居合わせた人間はギョッとした表情でロイの顔を見た。
仮に疾しい気持ちがないとしても、独身の男の家に年頃の娘を住まわせる提案など非常識にもほどがある。
一体何言ってんだ、この人!と、口には出さないが誰もが思った。
唯一口に出して言える人は、何という運命の悪戯なのか今現在席を外している。

「…アンタんち?」
「そうだよ。家賃は要らないし、職場にも近いし、何より書庫には文献が充実している」
「でも……家賃タダってのも悪いし……」

突っ込むとこはそこですか!?
迷う素振りを見せるエドワードに皆は心の中で突っ込みを入れた。
悩むところはそこではないだろう、と。
だが、皆の心の声は心の中だけの声だったので、エドワードには届かなかった。

「では、週に1度ハウスキーパーに来てもらっているのだが、君が代わりに家事をやってくれたら家賃をチャラにする、ってのはどうだ?」
「よし、乗った!」
「「「「「えええええ―――――っ!!!???」」」」」

今度こそ皆の声は口から出た。
ちゃんとエドワードに届いたが、上司には睨まれてしまった。

「なんだお前達。何か文句でも?」
「いや、文句ではないですが……ほら、ねぇ…いろいろと、アレ、ですし」
「ハボック大尉、何言ってんだ?」
「いや、お前……一応女の子だし、少将…とはいえ、独身の男と同居となると…」
「一応で悪かったな!」


―――だから、突っ込むとこはそこではないでしょう!?


皆は心の中で叫んだ。
本当は口に出して言いたかったが、発火布をちらつかせたままの上司の不機嫌な顔が怖くて言えなかった。

だが、そのうち戻ってくるであろう美貌の副官がこの事を知れば、その麗しい表情が冷徹に歪む事は間違いない。
考えただけで背筋が凍る恐ろしさだ。
上司もタダでは済まないだろうが、この場にいて止められなかった自分達も命が危ないのではないか。


「じゃあ、すぐ引っ越して良いか?月が変わると来月分の家賃払わなきゃならないし」
「良いとも。何なら業者も手配しよう。私持ちで」
「ありがとう!助かるよ」

顔面蒼白な皆さんを余所にさっさと引っ越しの算段をつけると、エドワードは晴れやかに笑った。
その笑顔はとても美しく、目の保養というには余りある至福であった―――が。


この後の事を考えると泣きたくなる皆さんだった。



2010/11/22 拍手より移動

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