悪役退場 ―――何を言ってるんだろう、この人は。 エドワードは、言われた言葉が上手く呑み込めずに首を傾げた。 その無垢な目に見つめられ、ヴァネッサは憎悪を募らせたように目元を吊り上げる。 「何よ……汚い事なんか何も知りません、って顔をして!…どうせロイとも寝たんでしょう?」 「え……?」 「ねぇ、どうやって繋ぎ止めたの?あなたの身体はそんなにロイの好みだった?それとも、ロイを楽しませる何かをあなたは持っているというの?」 そう言って、ヴァネッサはますます金切り声を上げた。 もはや身体全体から殺気を放っていると言っても過言ではない。 エドワードは身の危険を感じずにはいられなかった。 いざとなったら、逃げ込める先はロイの所属事務所だ。 ちらりと現在地から事務所が入っているビルまでの距離を目測する。 距離的にビルまでは楽勝だが、上手くエレベーターに乗れる保証はない。 事務所のある12階まで、果たして慣れないサンダルで駆け上がる事は出来るだろうか。 内心で密かに算段していると、ヴァネッサは1歩また1歩とエドワードに近付いてくる。 気圧されるように後退ったエドワードに、ヴァネッサは最後の切り札とばかりに言い放った。 「私、あなたの事調べたんだから!…あの事件の事だって!」 「あの……事件?」 何の話かと首を傾げれば、ヴァネッサは付け入る隙を見付けたとばかりに今度こそ勝ち誇ったように笑った。 思わず背中を冷たいものが走るような、狂気すら感じさせて。 「あなたが3歳の頃だから、憶えてないのも無理はないかもしれないけど……あなた、母親が若い男と浮気中に誘拐されたのよ」 「え……?」 「さっき言ったでしょ?ロイとあなたの母親が昔付き合ってた、って」 ギシリ、と心臓が軋む音がした。 先ほど言われた言葉が今になって深く胸を抉る。 ヴァネッサの言葉を全て信じる訳ではないが、それでもいくつかの疑問点がこれで腑に落ちる気がしたのだ。 ネットでロイの事を調べようとした時、エドワードの言い分も聞かずトリシャが一方的に叱責をした事。 昔会った事があるのかと聞いたエドワードに、ロイが酷く狼狽した事。 まるで腫れ物に触るように過度な保護をする父親。 そのどれもが、エドワードの誘拐事件もろともロイとトリシャの過去を隠そうとしていたとしか思えない。 ―――では、出会ったあの瞬間からロイがエドワードに近付いたのは…… 「ロイがあなたと付き合ってるのは、その時の罪悪感があるからよ。だって、自分の所為であなたが誘拐されたんだもの……性犯罪者の男にね。あなた、穢れも何も知りませんって顔してるけど、その男に何をされたか分からないのよ?」 「っ」 ヴァネッサの言葉に何も言い返す事も出来ずに、エドワードは立ち尽くした。 そんなエドワードの様子に気を良くしたように、ヴァネッサは金切り声で次々とエドワードを傷付ける言葉を吐き続ける。 ロイに向けられていたはずの執着心は、今や矛先を変え憎悪となって、全てエドワードに向けられているようだった。 「否定するならしてみなさいよ!」 そもそもこんな悪意しか感じられない人からの何の証拠もない話なんて、信じる方がおかしいのだろう。 けれど、エドワードにはそれを突っぱねるだけの自信がなかった。 だって、自分は何も覚えていないのだから――― 「彼女は何にもされていないよ」 そんな声と共に、庇うようにエドワードの前に立ちはだかったロイは、ヴァネッサの手から何かを叩き落とした。 カツンと硬い金属音を立ててアスファルトの上を転がったのは、小ぶりのナイフだ。 何故そんな物が、とエドワードがぼんやり眺めていると、ビルの方からホークアイと何人かの警備員がこちらに向かって走ってくるのに気が付いた。 「貴様が何をどう調べたのか知らないが……貴様が思うような事実など何もない。彼女は、車に乗せられる前に私が助け出したのだからな」 エドワードからは背中しか見えないが、今までに聞いた事のないような冷たい声で言い放ったロイは、これ以上ないくらい怒っているのだと知れる。 それは、どんどん顔色をなくしていくヴァネッサの様子からして明白だった。 「今後私達の前に顔を見せてみろ……今度は芸能界どころかこの国にいられないようにしてやる!」 決して大きな声ではないのに、ロイの言葉はビリビリと周囲の空気を震わせた。 背中に匿われていたエドワードでさえ、怖くて足が震えたのだ。 まともに向けられたヴァネッサはというと、ガタガタと身体を震わせ、力が抜けたようにその場に崩折れた。 「大丈夫……?」 「……リザ、さん……」 「もう心配いらないわ。さぁ、先に事務所へいきましょう」 そっと優しい手に促され、エドワードは地面と同化していた足を引き剥がすように1歩また1歩と歩きだす。 振り向けば、ヴァネッサは数人の警備員に取り押さえられ、アスファルトに呆然と座り込んだままだった。 遠巻きに目撃していた人もいたらしく、いつの間にやら周囲には人だかりが出来ている。 遠くからはパトカーのサイレンの音が聞こえ、知らずエドワードはホッと肩の力を抜いた。 これで終わりだ、と。 そうして、エドワードの視線は自然とロイの姿を追う。 ロイは、ただそこに立っている、といった風情で現場を眺めていた。 その背中には先ほどまでの激昂は感じられなかったが、逆にその静けさがいろんなものを拒絶しているように見えて、エドワードは泣きたくなるような思いでロイを睨み付ける。 「……こっち向けよ、バカ……」 堪えきれずに零れた声は、エドワードらしくない弱気な声だった。 普段のロイなら聞き漏らす事なく慌てて振り返ったであろうその声は、今の彼には届かなかったらしい。 ―――結局、ロイは一度もエドワードを振り返る事はなかったのだった。 2010/09/23 拍手より移動 back |