魔法がとけたお姫様 「ヤベぇな、しかし」 スタジオの片隅で、エドワードは膝を抱えて唸っていた。 いよいよ例のシーンの撮影当日。 なのに、エドワードは未だジゼルの気持ちに近付けずにいた。 とはいえ、2日間の猶予期間に何もしなかった訳ではない。 台本を最初から読み直し、一からジゼルの気持ちをおさらいしてみたのだ。 …だが、そんな努力もむなしく、ジゼルが最後の最後に思いを告げたその心境が理解出来なかった。 「さて、どうすっか……」 今更嫌だとも言えないし、延期してくれとも言えない。 何しろあんな啖呵を切ってしまったのだから。 とりあえず頭からシーツを被り、外界を遮断してみる。 「私はジゼル、私はジゼル」と呪文のように繰り返し自分に言い聞かせながら、エドワードからジゼルへと意識を変換して――― ―――ダメだ。 いつもならとっくに切り替わっているはずなのに、完全にジゼルの気持ちが掴めない所為かどう頑張ってもエドワードの意識が残っている。 言うなれば素面の状態だ。 この状態で演技……それもキスシーンなんて……無理だ、無理無理。 「ジゼル……大丈夫かい?」 「ちょっと待って!」 あああああもううるさい。 今からアンタとキスしなきゃならないのに、大丈夫な訳あるか! そう言いたいのを堪えながら、エドワードはシーツを被ったまま震える声で答えた。 自分がこんなにテンパっているというのに平然とした様子で声をかけてくる男が憎たらしかった。 「……もしかして、まだエドワードなのか?」 心底不思議そうに言われ、エドワードは頭の中が真っ白になった。 言われてみれば、現場で演技前に「エドワード」だった事がなかったのだ。 いつもなら、現場に到着した時点で「ジゼル」と切り替わっていたのだから。 なのに、今回に限ってこれでは、わざわざ「意識してます」と言ってるようなものではないか。 「ほんと、もうちょっと…だから……邪魔すんな」 「エドワード……そんなに嫌なら、キスシーンは私が上手く誤魔化すから、無理しなくて良いよ」 「……何だよ、それ」 苦笑混じりに言われた言葉に、かぁっ、と頭に血が上る。 素人なりに頑張ってやり遂げようとしているのに。 きちんとやり遂げて終わらせようとしているのに。 頭から「無理しなくて良い」などと言われて、素直に「はい、そうですか」なんて言えない。 やるからにはやる、そして終わらせる。 自分はそう決めたのだ。 「何、アンタ。それって俺がド素人だから?それとも、子供だから出来ないって情けかけてくれてる訳?」 「いや、そうではなくて……君には、そんな割り切った事など出来ないだろう?」 情の通わないキスを、出会ったその日に仕掛けた男が何を今更。 そう言って皮肉ってやりたいのに、言葉が詰まって出てこなかった。 コイツはそういう事が割り切って出来る男なのだ。 演技だろうが何だろうがキスくらいどうって事なくて、きっとそれ以上の事だって平気なのだ。 「だったら黙ってろよ。なんだよ今更……どうせ初めてじゃねぇし、1回も2回も一緒だ!」 そう言って怒鳴り付けると、エドワードは被っていたシーツを払いのけ無言のまま病室のセットへ歩み寄った。 背後から、まだ心配そうな声でロイが何やら話しかけてきたがさっくりと無視してベッドに潜り込む。 未だ撮影に乗り気でないホーエンハイムに「やる!」と一声かけると、見るからに消沈したような顔でホーエンハイムはロイに向き直った。 「…じゃあ、マスタング君。一発撮りでいくから、くれぐれもよろしく」 ホーエンハイムに真顔で言われたロイは、その並々ならぬプレッシャーに思わず苦笑した。 必要以上に娘に触れるなと釘を刺されたのだ。 そんな事、エドワードの知った事ではなかったが。 死期を悟ったジゼルは、愛した人と添い遂げる事が出来ないのだと知った時、どれほどの絶望を味わったのだろう。 きっと、出会った幸せと同じくらい、出会った不幸を嘆いたに違いない。 エドワードはそっと目を伏せ、自分とジゼルの境遇を重ね合わせてみた。 ロイはこの華やかな世界に住む人で、自分はもうすぐ今まで通りの普通の生活に戻る。 所詮住む世界が違うのだ。 今回のような事がなければ、一生出会う事も話す事もなかった。 今日、このシーンの撮影が終われば、ロイとはもう会う事はない。 映画の中のジゼルとエドワード自身が重なって、自然と涙が滲んでくる。 監督の娘で、ちょっとだけ毛色が変わっていたから、ロイは気紛れでからかってみただけの事なのだろう。 この撮影が終われば、そこにはきっと、何も残らない。 なのに自分ときたら、役柄になりきって、すっかりコイツにほだされていたなんて笑い話にもならない。 目の前の垣根を、次元の違うそれを、飛び越えられるはずなどなかったのに。 どうせ自分の事なんてすぐに忘れてしまうだろう、このろくでなしのその心に、出来るものなら引っ掻き傷を残してやりたい。 忘れた頃にちくりと痛むような、小さな小さな傷を。 そう考えて、エドワードは漸くジゼルの気持ちに近付けたような気がした。 ―――あぁ、そうか。 ジゼル……お前は、コイツに忘れられたくなかったんだな。 「……好き」 あんなに理解出来なかったはずの台詞が、あっさりと口から零れ落ちる。 ジゼルは、相手が自分を好きでもそうでなくても、今際の時のその言葉で、自分という存在を彼の心に刻みたかったのだ。 自分が目の前から消えても、自分という存在がいた事を忘れないでほしいと。 涙に曇った目で、ロイの顔がそっと近付くのを見ていた。 出会ったあの日と同じシチュエーションなのに、気持ちは全然違った。 愛しくて悲しい。 ない交ぜになった心が痛い。 いつの間にか、こんなにも好きで、好きで、好きで。 だけど、戯れだと分かっていて手を伸ばせるほど大人ではなかったし、無垢に信じられるほど子供でもなかった。 唇が重なり合う瞬間、ふ、とエドワードは目元を和ませ、静かに瞼を下ろした。 柔らかく触れた唇が震えたけれど、ロイは優しい仕草で頬を撫でた。 何度か啄ばみ、重ね、吸い、唇に舌を這わせ、撮影だと忘れてしまいそうになるほど、まるでここに恋情が存在するかのように、ロイは優しく優しくエドワードに触れる。 「私も、愛しているよ」 この期に及んで勘違いしそうになる自分に内心舌打ちすれば、目尻からポロポロと流れ落ちる涙を優しい指先が拭い、ロイが耳元で囁いた。 「ジゼル……」 あぁ―――これで本当に最後だ。 まるで魔法が解けたように、胸の中が空っぽになっていく。 これで自分はジゼルからエドワードに戻るのだ。 彼に愛されたジゼルは、もういない。 ジゼルが愛した彼も、もういない。 いるのは、エドワード・エルリックというただの女子高生と、ロイ・マスタングという俳優だ。 心の底で密やかに自分の恋に別れを告げて、エドワードは最後の演技を終えた。 2010/08/09 拍手より移動 back |