クライマックスまでもう少し ホーエンハイム監督は、撮影スケジュールは決して変えない主義である。 それは、役者自身が常にベストな状態で撮影に臨む事が出来るように初めから綿密な計画が練られているからであり、それこそ「心を撮る」と謳われるホーエンハイム所以の美学だった。 そんな訳で、今の今まで例外なくホーエンハイムは己のポリシーを貫いていた―――のだが。 ここにきて初めて例外が適用されようとしていた。 「嫌だ!キスシーンなんて絶対に嫌だ!!」 「何を言ってるんですか……このシーンを撮らないと映画は完成しないんですよ?」 「嫌だぁー!いくら演技でも、あんな男とキスなんて嫌だぁー!」 「ですが、シナリオにはそう書いてありましたよ、最初から。それは了承済みだったんじゃないんですか?」 「いやいやいやいやっ……絶対に嫌だあああああ!!!」 「監督、いい加減にしてください!」 マリアに怒られながら、ゴロゴロとスタジオの床を転げ回って、ホーエンハイム監督は駄々を捏ねていた。 そう―――エドワードではなくホーエンハイムが、である。 問題のシーンは、映画の最大のクライマックスシーンであるスコットとジゼルのキスシーンで、本来なら既に撮影が完了しているはずなのだが、ホーエンハイムが嫌がって避けた為に、正真正銘最後の最後まで撮影されずに残っている。 娘のエドワード絡みになると、彼の様々な美学は根底から覆されるらしい。 「大体、エドちゃんの台本に細工までするとはどういう了見ですか!」 「だって、嫌だったんだよ!」 「監督、そんな言い訳が通用すると思ってるんですか!」 「監督である前に、私は父親なんだ!」 しまいには威張り腐った顔で開き直るホーエンハイムに、その場に居合わせた者達は苦笑するしかなかった。 ある意味身内しかいなかったのがせめてもの救いだと言えよう。 こんな姿を見られては、ホーエンハイムを心酔している俳優達が気の毒だ。 「しかし、おかしいと思ったんだよなぁ……何の盛り上がりもないまま俺死んじゃってるし」 エドワードは改めて渡された細工なしの台本に目を通しながら、ふぅ、とため息を吐いた。 一体何ページ分ちょろまかしていたのか、エドワードの台本からは感動のクライマックスシーンが丸々カットされていたらしい。 バカだバカだと思っていたが、この親父は本当にバカだった。 「1番の見せ場をカットしてどうすんだよ?誰も観ねぇぞ、こんなつまんねー映画」 「観なくて結構!むしろ上映は止めだ!どこの馬の骨とも知れんヤツにお前を見せたくない!」 「おいおい……じゃあ、何の為に撮ってんだよ?」 「そもそもブラッドレイがしつこいから仕方なく撮る事になった映画なんだ!このフィルムはアイツにくれてやる!だからもう止めだ!」 「てめぇ、いい加減にしろよ?大体この撮影にいくらかかってんだよ!?んな事したら、うちが破産すんだろうが!!」 客観的に見れば、監督の胸ぐらを掴む主演女優、という由々しき事態なのだが、身内からすれば今更珍しくもない親子喧嘩だ。 あぁ、本当に、身内しかいなくて良かった。 「でも……今更なんだけど、エドちゃんは良いの?」 「何が?」 「知らなかったのでしょう?キスシーンがある事。…出来る?」 マリアに心配げに言われ、エドワードは首を竦めた。 自分の気持ちを自覚してしまった今、あの男と演技とはいえキスするなどとは耐えられそうになかった。 せめて先に、この撮影が始まる前から知らされていたら……少しは心の準備が出来ただろうか。 ―――いや、悩む期間が延びただけか。 「そうだな……悪いけど、2・3日時間もらえないか?…やっぱいきなりは無理」 「エドワード!無理なんかしなくて良いんだ!」 「うっせぇな……腹括ってんだから黙ってろ!」 往生際の悪さを遺憾なく発揮するホーエンハイムを怒鳴りつけると、エドワードはポツリと言葉を続ける。 「役に入り込んじまったら、それはもう俺じゃねーし……それに、無理やりだったとはいえ、やるって決めたのは俺だ。今更恥掻かすな」 「エドワード……」 「親父だって、遊びでこの映画撮ってた訳じゃねぇだろ?」 相変わらず父親としては自分勝手でいい加減で情けない人間だが、映画監督としては尊敬に値する人間だとエドワードも認めている。 それは、この短くはない撮影期間に実感した事だ。 ならば、自分は娘としてではなく1人の女優として、1度やると決めた仕事をやり遂げなければいけない。 こんな事でホーエンハイム監督の経歴に傷を付ける訳にいかないのだ。 「やるよ。だから、俺に2日くれ」 「2日…で良いかい?」 「うん。充分だ」 「……分かった」 本番は3日後、それで本当に撮影は終わりだ。 あの男と顔を合わせるのも、それで終わりなのだ。 だから―――ちゃんとやり遂げて、何もかも全部終わらせよう。 「あ、今日から家に帰れるぞ」 「え!マジ?」 「おう。これ見てみ?」 「何?……“アメストリス・タイムス”?」 「お前を狙ってたパパラッチな、裏でヴァネッサ・ロゥが手を引いてたらしいんだ」 誰だっけ?と考えて、そういえばこの前の雑誌に載っていたロイの彼女が確かそれだったような気がする、と思い至った。 しかし、それはともかく何故自分が狙われるのか、意味が分からない。 「……なんで?なんで、俺……?」 「んー…すっげ理不尽だけど、振られた腹いせってヤツ、かなぁ……」 「はあ?」 詳しくはその雑誌に書いてあるよ。 ハボックは苦笑しながらそう言うと、後は何も言わずに車を走らせた。 2010/07/30 拍手より移動 back |