ガラスの靴にくちづけを | ナノ


無自覚−無=?

「ったく……いつまでこんな事してなきゃなんねーの?」
「まぁまぁ、もうしばらくの辛抱だからさ……な?」
「ずっとそればっかじゃん。最初は2・3日って言ったくせによー…」

ぶぅぶぅ、と口を尖らせて文句を言いながら、エドワードは車の後部座席を転がった。
当初2・3日だと言われていたホテル生活も早1週間になり、さすがに学校を休み続ける訳にもいかず隠れて登下校している。
嫌々通っている国内屈指のお嬢様学校だったが、幸いセキュリティはしっかりしているらしく、それだけが救いだった。

「あ、一旦スタジオに寄るからさ。大将はおとなしく車ん中で待っててくれよ?」
「分かってるよ」

エドワードの所在を特定されない為に、毎日わざわざ違う車種の車に乗り換えているのだ。
その手間や苦労が分かっているだけに、エドワードも自ら居場所を知らしめるような事はせず、おとなしくしているくらいの分別はある。

「ちくしょー…俺、何も悪い事してねぇのに……」
「監督が、撮影終わったら海外旅行に行こうか、っつってたぞ?」
「やだよ。なんで親父なんかと」
「はは。監督泣くぞー?…と。じゃ、ちょっと待っててくれよ?外から見えねぇと思うけど、一応何か被っとけ」
「おう」

そう言って薄手のブランケットを差し出すと、手に何やら大きな袋を提げたハボックは車を降りていった。
どうやらエドワードを迎えに行くついでに買い出しでも頼まれたのだろう。
エドワードは素直にブランケットを頭から被りながら、イマイチ芽の出ない一番弟子を不憫に思った。

「でも、ジャン兄は優しいし、良いヤツなのにな……リザさん、付き合ってくれないかな……」

ふと、先日ハボックを売り込んだ金髪の優しいお姉さんを思い出したら、ついでにあの男の事も思い出した。
すると、途端にムカムカしたものがこみ上げてきて、エドワードは胸を押さえた。





「この前はすまなかった」

まるで2人きりになるのを待っていたみたいにそう切り出した男は、そう言ってやたら不安気な声を出すものだから、エドワードは怪訝そうに「何が」と問う事しか出来なかった。

「こちらから誘ったのに、君に不愉快な思いをさせてしまって……」

こんな子供相手でも、一応自分が失礼な事をしたと思っているらしい。
確かに不愉快な思いはしたが、所詮コイツはそういう男なのだ。
そう思えば、初めから分かっていた事にいちいち反応するのが馬鹿馬鹿しくて、つい突き放すように言ってしまった。

「あぁ、…別に不愉快なんてねぇし……噂通りなんだ、とは思ったけど?」
「それは、……」
「だから、いちいち気にすんなよ。…俺には関係ねぇ事じゃん」

前日の夜更かしがたたって眠気が限界だった所為もある。
不意に湧き上がってきた爆発寸前のイライラや、泣き叫びたくなるような不思議な感情の揺れを抑えるのに必死で、あの男がどんな顔をしていたかなんて知らない。
自分だって、どんな顔をしていたかも分からないのだから。

もう、ずっとだ。
あの男に初めて会った日から、ずっと。
俺の心は、穏やかさから程遠いところにある。
テコンドーの師匠には「君は常に冷静沈着なところが素晴らしい」と褒めてもらったのに、今や冷静沈着どころか感情の起伏を抑える術も持たないのだ。

しばらく無言状態が続き、気詰まりな空気に堪りかねたエドワードは立ち上がろうと膝に力をこめた―――その時、

「…また誘わせてくれないか?君の都合の良い時にでも……」

耳を擽ったのは、あの男らしくない控えめな誘いの言葉。
いつものような強引さも強かさも感じさせない柔らかな口調で、“断られたらどうしよう”とでもいうような弱気な雰囲気で。

―――不意に、“良いな”と思ったのだ。
その声と、その空気が。
こちらの様子を慎重に窺いながら、心の底を無防備に曝け出しているような、彼の本音に触れたような気がして。

そして、そこでふと気付いた。
あの男が纏う香りに。

やはり眠気が限界だと本能的なものが研ぎ澄まされるものなのだろうか。
今まで気にした事もない香りに、その時は何故か気付いたのだ。
それも、何やら懐かしさというか心安さのようなものも同時に。


そこから先の記憶は曖昧だ。
気が付けば、ここ最近の仮の住まいであるホテルの部屋にいた。
スタジオで眠ってしまったのだと聞いて、エドワードは驚いた。
幼い頃から誘拐事件に巻き込まれる事が度々あったエドワードは、身内の気配がすぐ傍にないところではどんなに眠くても眠った事がなかったからだ。

なのに、あんな絶対に信用のならない男の前で簡単に眠ってしまうなんて、何たる不覚だ。
いくら同じ空間に身内がいたのだとしても、あってはならない事ではないか。

「なんでだよ……くっそ……」

うーうーと唸りながら、エドワードはブランケットを被ったまま窓から外へ視線をやった。
外から車内は見えないが、車内から外はよく見える。
とりあえず思考をクリーンにしようと思った上での行動だったのだが、エドワードはそれが失敗だったとすぐに後悔する羽目になった。


「あれ……?」

スタジオの裏手に停められた車からは、スタッフの休憩室がよく見える。
そこに、本来そんな場所にいるはずのないロイがいた。

―――女と一緒に。

相手は誰だろうと目を凝らして見れば、先日雑誌で見たロイの恋人だ。
窓際に立ち、こちらに背を向けているロイの表情は窺えないが、女は艶やかに笑い、媚びを売るようにロイに手を伸ばした。

女の手が、ロイの肩に触れる。
何を話しているのか聞こえないが、まるで抱き合うような体勢でしばらく動きを止め、おもむろに女がロイの首に腕を絡め、そっと顔を近付けた―――

「っ!」

エドワードは、ブランケットに包まったまま座席に転がった。
それ以上2人の様子を見ていられなかったのだ。

キス、したのだと思う。
別に恋人同士ならおかしな事ではないし、あの男は恋人でなくてもキスを仕掛けるような男だ。
だから何を今更驚く事があるのだ、と己の心臓を押さえてみるが、嫌な動悸は治まらない。

自然と指先は、唇をなぞっていた。
数ヶ月前、あの男に勝手に奪われた唇を。
おそらくロイにとっては何10回…いや、何100回も交わしたキスの内の1回だったのだろうあのキスは、エドワードにとっては初めての、たった一度きりのファーストキスだったのだ。

その唇が、エドワード以外の女の人の唇に触れている―――

なんでこんなに胸が痛いんだろう。
万力か何かでギリギリと捻られたみたいに、痛くて息苦しくて堪らない。

「あれ……?」

ポタポタと掌に滴り落ちる水滴に気付き、何かと首を傾げれば、それは1粒2粒と勢いを増してエドワードの掌を濡らした。

「なんで……」

濡れているのは掌だけではなく、エドワードの頬には幾重にも雫が流れ落ちていく濡れた跡があった。
その雫が涙だと理解したのと同時に、ずっと胸の中に巣食っていた霧が晴れていくような気がして―――


「あぁ……そっか……俺……」


アイツの事が好きなんだ。


そう、唐突に理解した。


それは、まるで頭を殴られたかのような衝撃と、胸の空くような爽快感と、無理やり苦い物を呑まされたような後味の悪さを伴って。



2010/07/30 拍手より移動

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