07 翌日出勤するなり「休日はいかがでしたか?」という言葉と副官の笑顔で出迎えられた。 彼女に遠巻きに憧れている者には麗しいと感じられるだろうその笑顔は、ロイにとっては「あの子を傷付けたりしていないでしょうね?」という無言の圧力を感じるには充分な迫力に満ちている。 「あぁ、古書店巡りとカフェ巡りで1日があっという間でね。エディはカフェの新作スイーツを制覇するんだと息巻いて……1日では3軒が限界だったが。それに、エディの作る料理が美味しくてね。うっかり太りそうだよ」 「まぁ」 苦笑を浮かべながらそう答えれば、その内容は副官の及第点を得られたらしく、彼女の目元に柔らかい笑みが浮かんだ。 彼女がこんな風に笑う事は珍しい。 たった1度会っただけの少女の何が彼女にそうさせるのか分からないが、あのちんまりとした風情に母性本能を擽られでもしたのだろうか。 そんな事を考えながら、ロイは執務机に積まれた書類を手にした。 出来るだけ素早く執務をこなして時間を作らなければ、ナタリーに会いに行けない。 何しろ鬼の副官はエドワードの味方なのだ。 仕事を放り出した上にエドワード以外の女性に会いに行ったとなれば、罪状は膨らみ、本気で殺されかねないだろう。 いつものサボりの懲罰など比ではない。 「では、また追加の書類をお持ちしますので」 「あぁ、どんどん持ってきてくれたまえ」 気持ちが逸るあまり張り切った言い方になってしまい、副官は怪訝そうな顔で僅かに首を傾げられる。 顔を見られると悪巧みがばれそうで、ロイは仕事に没頭しているふりで副官の退室を待ち、その場をやり過ごした。 ―――が、副官はやはりロイより1枚上手だったのだ。 「なんだこれは……一向に終わらんではないか」 次々と矢継ぎ早に追加される書類は、長めの休憩を取ろうというロイの目論見などせせら笑う勢いで、手元の書類が終わった端から積まれていく。 確かにどんどん持ってこいとは言ったが、こんなに来られては予定がパーだ。 さすがに数日会わなかったとしてもナタリーが早々心変わりするとは思えないが、こちらから誘ったのにも関わらずキャンセルしてしまったのだ。 遊びや気紛れだと思われても困る。 そして、そうならない為にも、今日は絶対に会いに行かなければならないのだ。 「失礼しまーす。追加の書類でーす」 「またか……」 そろそろ昼になろうというところだが、朝からフルで書類を裁いていたロイは既に仕事に飽きていた。 このまま大人しく仕事をこなしていても、恐らく途切れる事はないだろう。 ロイは今までの経験からそう確信した。 「ハボック……一体どれだけ書類を裁けば休憩出来るのかね?」 「あー…っと、これ済んだらお昼にして良いと、ホークアイ中尉が」 「まったく、どっちが上官が分からんな」 ふぅ、と重いため息を吐きながら、ロイはハボックの抱えてきた書類の束と時計を見比べた。 これをすべて終わらせてから出ると、ナタリーの昼休みが終わってしまう。 それでは彼女と昼食を共にする計画が台無しだ。 グダグダとあれこれ画策していると、ロイの目の前でハボックがニタリと嫌な笑みを浮かべている事に気付いた。 思わずロイの眉間に皺が寄る。 何しろこの部下ときたら、わざとか?と聞きたくなるくらい余計な事を言ってロイの逆鱗に触れてくれるのだ。 今も、ロイの不機嫌そうな顔に怯む事なく、ニヤニヤした顔を隠そうともしない。 「なんだ?」 「良いッスねぇ〜料理上手な嫁さんで!ほんと羨ましい限りで……」 どうやら副官に話した内容を聞いてからかっているらしい。 ただでさえイライラしていたというのに、その言葉でロイの苛立ちは最高潮に達した。 「ハボック……貴様、ホーエンハイム先生の話を聞いてなかったのか?それに、あの子は確かに大切な子供だが、そのような対象になる訳なかろう!」 ギロリと睨んで発火布をちらつかせれば、いきなりキレられると思っていなかったのか、ハボックは大袈裟なアクションでもって飛び退いた。 「いきなり何ですかぁ!?」 「その書類は机の上に置いておけ。私は出てくる」 「え!?ちょっと待ってくださいよ!」 「煩い。黙れ」 ピシャリと言い放ち、ロイは執務室を出ていった。 「後でどうなっても知りませんよ」などという台詞は無視して、ハボックの前髪を燃やす事は忘れずに。 「やぁ、ナタリー」 「あら、マスタングさん。お仕事中?」 「ちょっと息抜きさ。…この前はすまなかったね。せっかくのデートを急にキャンセルしてしまって……」 「いいえ。お仕事だったのでしょう?大変ね」 ロイの謝罪ににこりと微笑むナタリーは艶やかで美しく、それだけでロイの胸は高鳴ってしまう。 今すぐ抱きしめて口付けたい衝動に駆られたが、真っ昼間の図書館には残念ながら人目がありすぎた。 そっと金色の髪をひと掬いして、溢れる想いのまま髪の先に口付ける。 やはり美しいとしか表現のしようがない金色の髪は、ロイの指先をしなやかに滑り艶やかにきらめいた。 ため息が出るほどの美しさだ。 昨日遠目に見かけた時、この髪が何故色褪せて見えたのか全く理解出来ない。 「是非とも先日の穴埋めがしたいのだが……どうだろう?」 「あら、素敵」 「よければこれから……」 ―――昼食を一緒に。 そう続けようとしたロイの言葉は、図書館の玄関付近から聞こえてきた大きな物音と、 「大丈夫か、嬢ちゃん!?」 という、どこかで聞き覚えのある声に邪魔され、口にする事は出来なかった。 「ヒューズ……それに、エディも。どうしたんだ、こんなところで」 「いや〜この嬢ちゃんが大荷物抱えてここを真剣に覗き込んでたからさぁ。どうしたんだ?って声かけたら、驚かせちまったみたいで……ってお前、知り合いか?」 ガハハハと豪快に笑う悪友にロイはガックリと肩を落とした。 まさかこんな場面で出くわすとは、全く笑い事ではない。 いつから見られていたのか分からないが、覗き込んでいたというのだから確実に髪に口付けていたのはしっかり見られたのだろう。 怒っているだろうか、それとも泣かせただろうか、と気まずい想いで視線を落とせば、当のエドワードは怒るでも泣くでもなく、どことなく気まずそうな表情をしていた。 この場合状況を考えれば、明らかに気まずいのはロイの方だと思うのだが。 「マスタングさん。こちらの方は?」 「あぁ…、彼はマース・ヒューズ。私の悪友だ。…それと、彼女は…―――」 さて、どう紹介すれば良いのだろうか。 ロイは貼りつけた完璧な笑顔の下で途方に暮れた。 どちらか一方を誤魔化すのは簡単だが、双方を誤魔化すのは難しい。 何しろエドワードはロイの婚約者だと言って憚らないのだ。 ナタリーと別れるつもりはさらさらないし、かといってエドワードを泣かせる訳にもいかない。 こんな場所でいきなりの修羅場は勘弁願いたい。 「…はじめまして」 だが、僅かな沈黙の後、先に口を開いたのはエドワードだった。 にこりと花のように微笑んで、ナタリーを真っ直ぐに見据える。 「あ、えと…お、…私は、エドワード・ホーエンハイムといいます。私の父が、大佐とは古い知人で……しばらくお世話になってます」 てっきりこれ見よがしにロイの婚約者だと名乗るものだと思っていたら、エドワードは意外にもそんな風に名乗った。 その愛らしい笑顔に、ナタリーは表情を明るくすると感嘆のため息を零した。 「まぁ、可愛らしいお嬢さん。…でも、ホーエンハイム…?」 「君も知っているだろう?ヴァン・ホーエンハイム先生だよ。実は私の師匠で…―――」 やった…誤魔化せる。 ロイはそう確信して、当たり障りのない話題でこの場を切り抜けようと考えた。 もう今日の昼食は諦めざるを得ないが、今さえ乗り切ればいずれチャンスも訪れるだろう、と。 「ヴァン・ホーエンハイム先生?素敵!私、ホーエンハイム先生のファンなの!」 そう言ったナタリーの頬が薔薇色に染まる。 うっとりと蕩けそうな笑みを浮かべ、悩ましげな吐息まで零して。 ロイのどんな口説き文句にもそんな表情を見せてくれた事などなかったのに。 「ねぇ、マスタングさん!穴埋めしてくださるなら、私、ホーエンハイム先生にお会いしたいわ!」 「え……先生に?」 「私、ああいうナイスミドルな方が大好きなの!人生経験だって豊富そうだし、何よりセクシーだと思わない?」 「は…………?」 「先生の好みのタイプってどんな感じ?私じゃダメ?すごい愛妻家らしいけど、口説かれてくれないかしら!」 「…………」 ―――誰だ……これは? 身を捩りながら熱く語るナタリーを、ロイは言葉をなくして眺める事しか出来なかった。 そこには、ロイが惹かれた知的な色は一切ない。 それどころか、その辺に転がっている尻の軽い女性達と何ら変わりなく見えた。 ロイは一瞬のうちにナタリーへの興味をなくしていく自分を感じていた。 自分を魅了してやまなかった顔も髪も身体も、何の価値もないように思えた。 こんな女の為に朝から馬車馬のように働いて、手酷い制裁をものともせず仕事を放棄してきた自分はバカじゃないかと思わずにいられないくらいに。 ―――結局。 穴埋めの話も適当にはぐらかしつつ、何だかもうどうでも良い気持ちで図書館を出た。 もう2度とこちらから声をかける事はないだろう、と確信して。 その間、エドワードが1言も口を聞かなかった事にロイが気付いたのは、ずっと後の事だった。 2011/07/11 拍手より移動 back |